夏の逃げ水


「何それ?」
少年はソファの上に片足を乗せて大きく振り返り、男の方向を向いた。
そして大きなあくびを一つすると、興味津々な眼差しで見つめた。
「海を見たことがあるかい?」
「海?この国の人間は、まず見たことないんじゃねぇか?」
男はにんまりと笑うと、少年を見ずに手元の書類に視線を落とす。
そのまま無言で書類にサインをする姿に、少年はふくれっつらになり顔を背けた。
それを確認すると、また、にんまり顔を作り、少年を見つめた。
「私は、幼い頃に1度だけ海を見たことがあってね。まだこの国が近隣諸国に対して友好的だった頃にね。」
少年は顔を背けたままそれを聞いていた。
手元には、難解な研究論文。
「泳ぐには冷たくて、でも、日差しは暑い日だった。」
「オレは、海に入ったら殺されるな。」
「そうだろうね。」
少年と男は2人で小さく笑った。


男は幼い頃の思い出に身をゆだねていた。
幸せな子供の頃の思い出。
過ぎ去りし夏の逃げ水。
目の前の少年がそれと同じに思えていた。


「で、逃げ水って何だよ。」
男は思わず「君のことだよ」と言いそうになるが、それを喉元で呑み込んだ。
「潮の満ち引きかな。波が遠くなったり、近くなったり。私はそれを追いかけて遊んだ。」
「へぇ、あんたのそういう姿、想像できねぇな。」
「そうかい?私も昔は子供だった。」
「生意気な?」
「君には負ける。」


近づいては遠くなる波に、男は少年の姿を重ねた。
足元に感じる潮の満ち引きを今この瞬間感じていた。


「いつ、旅に出る?」
「ん?そうだな。この研究書読み終わったら。これ、貸し出し禁止なんだわ。」
「また、そういう不正行為をして…」
男はその言動とは裏腹にうれしそうだった。
「大佐の仕事の見張りをするからって言ったら、二つ返事。ここのソファは座り心地よすぎ。」


真実はどこか。


ただ確実なのは、夏が近づくということ。
雲がそれを予言している







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