慈しみ深き友なるイエスは、罪、咎、憂いを取り去りたもう。
心の嘆きをつつまず述べて、などかは下さぬ、負える重荷を。
慈しみ深き友なるイエスは、我らの弱きを知りて憐れむ。
悩み哀しみに沈める時も、祈りに応えて慰めたまわん。
慈しみ深き友なるイエスは、変らぬ愛もて導きたもう。
世の友われらを捨て去る時も、祈りに応えて労りたまわん。
【賛美歌312番/いつくしみ深き】
An Gel
第2楽章 Clownish
このとき既に、定期演奏会まで1ヶ月を切っていた。
曲数5曲。
譜面自体はさほど難しいものではなかった。
暗譜はしなくてもいいらしいが、それでも、誰かとあわせることすら初めてのオレは戸惑いの中にいた。
「ヘ・タ・ク・ソ」
ああ、殴ってやりたい。
先日の暴挙のお陰か、打ち解けるまでに時間を要さなかった。
彼は、よく笑い、良く怒ったし、足癖も悪かった。
つまり、お高くとまっているのは仮の姿で、実際はとてもフランクで明るい奴だった。
「1ヘルツも音がずれないお前がおかしいんだよ。」
オレの耳にはそこまで聞き分けることができないが、彼は音を与えずとも正確にその音を奏でることができた。
気づいたこと、こいつはミューズと言うより、それに愛されているということだ。
そして、その曲がこいつのためだけに作られたかのような錯覚を覚えさせる。
つまりは、天才なのだ。
聞けば、こいつも学年主席らしい。
天は2物も3物もこいつに与えている。
平等くそくらえ。
「ロイは、急ぐ癖があるんだよ。もうちょっと空気を纏えばいいんだ。」
そして、歌う。
オレはそれにならった。
オレ達はほとんどと言っていいほど、授業に出なくなった。
たかが1ヶ月、されど1ヶ月。
次の考査が気になってはいたが、それよりも、こちらに没頭した。
なにより、楽しかったのだ。
はじめてピアノの講師に褒められた瞬間とか、はじめて曲になったときとか、それと同じ感覚がこいつとの練習にはあった。
「よ、特権階級。次の考査では俺が一番かな?」
「ヒューズ。」
「どうだい?ル・べべ・ミューズは。」
「糞餓鬼だよ。」
「そんなこと、信者に聞かれてみろ、殺されるぞ。」
「殺されたほうがいくらかましだ。」
練習は鬼のような地獄の特訓だった。
朝から晩まで、見事にピアノの前でしごかれている。
相性が悪いのではないかと思うほど、あわせることができていない。
口の悪い我がル・べべ・ミューズは、最近は口だけではなく、足も付いている。
椅子を蹴るくらいならまだしも、そろそろピアノも蹴り上げそうだ。
「あの、糞餓鬼スパルタだ。」
決して、オレはヘタクソではない。
定期演奏会に出られないと言うこと以外はパーフェクトなのだ。
学院に入るまでは神童と称され、サロンでは引く手数多だったし、もちろん専攻過程も、考査の対象となっている。
それで1番なのだ。
「ま、頑張れ。」
軽く言ってくれる。
しかし、練習すればするほど、言葉に表せない歓喜を覚えた。
オレの奏でるそれが、初めて音楽と呼べるものになっている。
ル・べべ・ミューズの旋律がオレの旋律にうまく乗った瞬間、最高の快楽を得られた。
「相性、最高だな。これだけの快楽の波に流されるのは初めてだ。」
心臓が大きく打つ。
悦楽。
こいつの声にあわせることが、これだけ気持ちのよいことだとは知らなかった。
そして、定期演奏会がやってきた。
オレは、はじめて演奏する側に立ち、それがル・べべ・ミューズの伴奏だと言うことを始めて誇りに感じた。
緊張すらも、今のオレの前には絶頂のための前戯だった。
1曲目はアカペラ。
音を合わすことすらしないル・べべ・ミューズは見事、その音を発する。
ホールに響き渡る歌声。
音と言うにはあまりにも上質で、それは言い表せない感覚で、五感を刺激した。
2曲目からはオレの伴奏が付く。
そして、オレは快楽の波の中で溺れた。
いつまでも、いつまでも、オレはこの快楽の中にいたかった。
指先が軽い。
ピアノもル・べべ・ミューズに共鳴している。
オレが伴奏しているのではない。
ミューズが音を占拠し、オレを操っている。
演奏しているのではないのだ。
「次の選考会で、あんたはソロでピアノが弾ける。」
「え?」
「あんたの演奏に足りなかったものが、備わったからだ。」
ル・べべ・ミューズは本当に天使のような微笑でオレに笑いかけた。
「ミューズはお前に祝福する。」
オレは最高の栄誉を手にした。
オレの手を取り口づけする様は、神から何かを賜るような行為に見える。
「あのさ、オレ、お前の伴奏続けたいと思っているんだ。」
「は?何言ってんの?あんたはこれから才能を認められる権利を得たんだ。自ら放棄してどうする。」
「今日の拍手を聞いたか?お前の音を最大限引き出せるのはオレだけだ。」
「自惚れるな。」
ル・べべ・ミューズは癖の悪い足で、控え室の机を蹴り上げた。
花束や貢物が無残にも投げ出されていく。
大きな音を立てて机は倒れた。
「自惚れか?自惚れているのはお前だろ?ル・べべ・ミューズ。」
「オレが自惚れてるだと?」
「オレ以外の誰の伴奏でも、今日のような音が出せると言うのか?」
「そうだよ。今までも、これからもそうだ。」
「違うな。お前はもう、オレ以外の伴奏では歌いきれない。」
「違う!」
「違わない。」
本当は、オレが恐れていた。
手に入れたものは大きすぎた。
それはもう、手放すことができなかった。
しかし、こいつもそうなのではないか言う自信だけはあった。
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