閑話休題。
オレの部屋を例としてあげるなら、タオルや、寝具はほったらかしだし、勉強道具も机の上に散在している。
お気に入りの女優のポストカードが貼ってあったりするのが普通だ。
いや、オレのことではなかった。これは同居人の話だ。
オレの居住スペースはいたって片付いている!
無造作に置かれた楽譜だけがここが彼の部屋だと示している唯一のものだった。
静かにベッドに寝かせてやると、オレはタオルを探した。
あのままでは次の日は、声どころか顔すらも大変な状態になる。
さすが個室なだけあって、シャワー室も洗面所も完備だ。
オレはタオルを濡らして、顔を拭いてやった。
ちっとも起きやしない。
オレは、目元にタオルを乗せたまま、部屋を出た。
その晩は、いまいち寝付けなかった。
高ぶるものを抑えきれず、寂しくトイレに向かった。
朝は最悪。
見事な晴天が疎ましかった。
ル・べべ・ミューズはいつも通り、甘美な音を奏でていた。
「その清々しい顔がむかつくよ。」
「だろ?オレも鏡見て思った。」
「お前は、懺悔をして楽になったかもしれないが聞かされたオレは最悪だ。」
「あはは。」
「笑い事じゃない。今日ほど神父やシスターを偉大に感じた日はないよ。」
「まさか、オレで一発抜いたとか?それで落ち込んでたりして。」
「馬鹿言え、あれだけのことを聞かされて平常心を保っていられるほうがおかしい。」
正にその通りです。
抜きました。
ああ、抜きましたさ。
ル・べべ・ミューズの艶やかな声で啼く、お前を想像したさ。
若気のいたりなので、許してください。
それでも、昨日より幾分か顔色のよくなった彼を見て安心した。
嫌味の一つでも聞かないと、彼と練習している気がしないのだ。
「でも、良かった。ここには来ないと思った。」
「それも考えたが、乗りかかった船だ。オレのバカロレア進学まで付き合ってもらうぞ。」
オレはどこかおかしいのだろうか。
昨日まではなんともなかったはずだ。
小生意気な糞餓鬼をおかずにしたのが不味かったのか…、どうも扱いづらい。
それでも、練習にはしっかり身を入れなくては、蹴りが飛んでくる。
「なあ、あんたはオレを抱きたいと思うか。」
「は?お前みたいな糞餓鬼に欲情するのは馬鹿だけだよ。」
オレは嘘を吐いた。
昨日部屋に送り届けた時点で、オレの理性は限界だった。
淫猥な鳴き声で啼くこいつを想像するだけで、おかしくなりそうだった。
でも、今の位置に居続けるためには、この衝動は押さえ込まなければならない。
定期演奏会、オレは異例の曲数を抱えていた。
ソロは1曲だが、それ以外にル・べべ・ミューズの伴奏という大役を担っている。
噂が噂を呼んだか、オレの演奏はちょっとした注目を浴びていた。
ル・べべ・ミューズが側近に選んだ唯一の演奏者。
更にゴシックではオレとル・べべ・ミューズの肉体関係まで報道されていた。
馬鹿な話があるか。
眉唾報道と、オレは無視を決め込んでいた。
彼は舞台の上でより一層輝いた。
彼と合わせるほど、より高みに昇ることができた。
しかし、オレは考えていた。
彼との関係はこのままでいいのだろうかと。
もっと深いところで彼とつながる事ができれば、もっと高みへ昇れるのではないかと。
彼もそれを望んでいる気がした。
しかし、オレはその勇気がなかった。
その行為は、オレ達の関係を崩すものだと知っていた。
今までの伴奏者もそうだったのだろうか。
だから、彼を求めたのだろうか。
しかし、彼は全てを拒んだ。
それがル・べべ・ミューズの寵愛を受けるに等しくないかのごとく。
その後のお茶会に、オレは見事招待された。
しかし、前回のそれとは違った。
「君は、大変優秀な生徒のようだね。そろそろ、本腰を入れて、バカロレアに向けて練習しなければならないんじゃないかな?」
「ソロとしても認められているようだが、いつまでも伴奏に落ち着いている場合じゃないだろ?」
「練習が大変ではないのかね?」
何が言いたいんだ?
ル・べべ・ミューズはそれを黙って聞いている。
オレはどう返答したらいいのかがわからず、ただうなづくばかりだった。
「さて、では私たちは向こうへ行こうか。」
ル・べべ・ミューズの手を取って一人の男が立ち上がる。
彼はこちらを一瞥し、何か言いたげに唇を噛み締めた。
続けて立ち上がろうとするオレを、別の男が制する。
「君は無粋な事をする気かね?」
オレは何もいえなかった。
ただ、彼が扉の外に出て行くのを見ていただけだった。
「君は彼と恋人なのかな?」
「いいえ。違います。ただの伴奏者です。」
「では、君には何の権限もない。」
高らかに笑うこいつらを殴ってやりたかった。
こいつらはその薄汚い手でル・べべ・ミューズを犯すと思うだけで、身震いした。
その薄汚いひげ面であいつの唇を汚すのか?
その薄汚い手であいつの肢体を汚すのか?
その薄汚い眼であいつの心を汚すのか?
殺してやりたい衝動に駆られた。
彼らは至極当然のように、彼の話をした。
淫猥なル・べべ・ミューズ。
今すぐにでも、耳を切り落としてしまいたかった。
今すぐにでも、その下品な口をどうにかしてやりたかった。
「坊や、私のところに来て、話をしないかい?」
突然、後ろから話しかけられる。
そういって、黒髪のご婦人はオレを招いた。
彼女は他のそれとは違い、簡素な黒のドレスを身に纏っていた。
「ああいう連中は好きではなくってね。君をお茶会に指名したうちの一人、イズミ・カーティスだ。」
「お初にお目にかかります。カーティス伯爵夫人。」
伯爵夫人はとても大胆に、そして艶やかに笑った。
色香というものはこういうものなのだろうか。
「君の演奏はいいね。艶やかだ。ル・べべ・ミューズの影響かい?」
「はい。」
「君がああいう場に出るのは、専攻科の新人演奏会以来かな?」
「はい。」
「あの頃は、まだ青臭い演奏だった。腕は確かなのにもったいないと、伯爵と話した事がある。」
「ありがとうございます。」
「君の援助を申し出たいんだが、いいだろうか?それとももう、決まっているのかい?」
「いいえ、ありがとうございます。」
「普通に話してもらっても構わないよ。今の瞬間からマスタング男爵家の地位は忘れてもらっても構わない。」
「マスタングをご存知で?」
「ああ、君の母君とは旧知の仲でね。」
「そうでしたか。」
「でも、確かに君に才能を見たから、援助を申し出たんだよ。それを忘れないでくれ。」
オレは浮かれていた。
彼のことを忘れたわけではなかったが、彼が戻り、視線だけでオレを探しまた連れられていった事には気がつかなかった。
カーティス伯爵婦人は面白い方だった。
サロンの話で懐かしい名前を聞いたりだとか、おおいに盛り上がった。
「カーティス伯爵家は大変な資産持ちだと聞く。」
「そうらしいな。それに、面白い方だ。」
「あら、ジャン様はハボック公爵家よ。」
「「いや、のろけは聞いていない。」」
あれから、2人は文通しているらしい。
かいがいしく毎日だと。
リザも、ホークアイ子爵家のご令嬢だったりするので、お似合いの2人と言える。
そして、背中に覚えのある蹴りを感じて、オレはまた床に倒れこんだ。
「また、お前かー!!!」
「なんのために話したと思ってるんだ!」
「知るか!」
「兄サンを助ける気がないなら、今すぐ伴奏を降りろ。いまや、伴奏をする意味も無いだろう!」
「ある。オレと、あいつの音の相性はいいんだ。」
もう、オレは引き下がれないところまで来ていた。
オレ達は話し合う必要があったし、彼がオレに何をして欲しいかをはっきりと聞く必要があった。
あの視線の意味とか…。
「どう、したいか?そうだな。」
講堂から寮に向かう途中、オレは聞いた。
もう、聞かずにいる必要がなかったからだ。
「オレ、あんただけのために歌いたい。」
ただ真っ直ぐこちらを見据えて、ル・べべ・ミューズは言った。
その顔は、青白く不健康そのものだったが、弧を描く瞳はいつものそれより酷く淫猥だった。
「オレのためだけに奏でて欲しい。」
オレは思いも寄らない返答に驚いていた。
助けて欲しいだとか、そういう類の返答を予想していた。
「じゃあ、このまま2人で駆け落ちでもするか?」
「冗談だよ。助けてくれなんて言うとでも思ったか?」
「思った。」
「じゃあ、何であの日、助けてくれなかったんだ?じゃあ、何でオレを見てくれなかったんだ?なんで、あんたは楽しそうに笑っていたんだ?」
「じゃあ、言えばよかったんだ。」
「違うね。あんたは知ってた。でも、助けてくれなかった!」
「幻滅したか。」
「いや、感謝した。」
「感謝?」
「そうだよ。あんたがあそこでオレを行かせなかったら、オレもあんたもこの学院にはいられなくなっていた。軽率な行動を起こさないでいてくれたことに、あの後感謝したよ。」
「何か、言われたのか?」
「オレとお前の関係を問いただされた。」
「恋人だとか?」
「ただの伴奏者だと応えた。」
「まぁ、実際そうだけどな。」
「ははは。誰も信じちゃくれなかったけどね。」
「だろうな。オレのすごい剣幕で問われた。」
「オレさ、もう、男じゃなくなったんだよ。」
何の前触れもない告白に、オレは聞く耳を疑った。
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