An Gel

第4楽章 Evangel










オレは演奏家にはならなかった。
バカロレアに進学をすることもしなかった。
しかし、主席で卒業することを最後まで努めた。
それが、学院に対するせめてもの償いであった。
カーティス伯爵夫人はそれはたいそう残念がってはいたが、最後はオレを応援してくれた。
今でも、伯爵夫人から連絡が来たり、援助を頂いている。
オレは今、小さな田舎の教会で声楽隊の指揮・指導をしている。
もちろん、親も親類も反対したし、勘当同然で家を飛び出した。
なので、その援助は大変ありがたかったし、教会にそれなりのオルガンも購入できた。


彼がいなくなった学院は静だった。
代行人がそのまま次のミューズになり、彼女はいいオペラ歌手になったと風の噂に聞いた。
彼を愛したブルジョアは、彼の死を悼んだがそれでもすぐに次のミューズに夢中になった。
そう、彼は風化していった。
彼の弟達はそのままバカロレアにて勉学に励みながら演奏家になった。
リザは卒業と同時にハボック公爵家に嫁いだ。
ヒューズはバカロレア卒業後、売れない作曲家を続けているが、気立てのいい嫁を見つけ幸せそうだ。


オレは、心に穴をあけたままでいる。
彼の夢見たこの仕事も、所詮彼の夢だったのだ。
でも、これでよかったと思っている。
演奏家になったところで、その先は見えていた。
彼のいないオレは、なにもないのだ。


朝は夜明け前に起き、教会の掃除をする。
そして、昼前になれば、元気な子供たちが歌を教わりに来る。
午後は神父と共に、静に菜園や花壇の手入れをした。
日が沈めば厳かにその日1日の感謝を神に捧げ、休む。
休日になれば、子供たちが朝から賑やかに歌った。
村人はそれを眺めて微笑んだ。
それがオレの毎日で、それがオレの全てだった。
時に彼を思い出し、胸が詰まる思いになった。
神父は何も言わず、ただオレの繰り返す懺悔に耳をかたむけ続けてくれた。


そんなオレの元に1通の招待状が届いた。
差出人はイズミ・カーティス伯爵夫人。
中には1枚のチケットが入っていた。
日付は明後日だった。


「来たね。」
「ご招待、感謝いたします。」
「うーん、その恰好はいただけないね。」
「すみません。すべて処分してしまって。」
「そうだと思って、用意しておいたよ。」


そして、オレは控え室に連れ込まれた。
しかし、それはどうみても演奏者のそれだった。


「あの、どういう。」
「まあ、着なさい。」


半ば無理やり着替えさせられた。


「はい?」
「だから、君のためのコンサートだよ。」
「でも…」
「弾けないなんて、言わせないよ。」
「はぁ。」
「君の演奏を聞くために、大勢の観客が待っているんだ。」


弾けるはずがないと、どうしてこんなことをするのかと問い詰めたかったが、それもまた面倒だった。
伯爵夫人の顔に泥を塗ることになると思いながら、俺は鬱々とした気持ちで、舞台の袖まで引きずられていった。


「何のために5年もの間、君をそっとしておいたと思っているんだ。」


ああ、彼が死んでからもう、5年がたったのか。
卒業してから、ほとんどと言っていいほどピアノを弾いていなかった。
ただ虚しい行為だった。
彼はどこにもいない。
旋律を奏でる意味すら、オレは疑問に思っていた。


彼の音の無いオレの旋律は、屑以下だった。
彼がいないことがこんなに悲しいことだとは、思いもしなかった。
しかし、彼は忘れられていった。
悲しいことではあるけれど、それは至極当然だった。
彼はもう、虚像にしか過ぎないのだ。
彼はそういう形で、永遠を手に入れたのだ。
ル・べべ・ミューズ、これがお前が望んだことなのか?


指が動くか不安だったが、それでもいいと思った。
オレにはもう、演奏家として生きていくことができないということをわかってもらうチャンスだった。


背中に覚えのある衝撃が加わる。
後ろを振り向くと、見覚えのある青年が2人立っていた。
しかし、蹴り倒したオレを無視して、伯爵夫人に挨拶をする彼らを懐かしいと感じた。


「お久しぶりです。今日はお招きいただき、ありがとうございます。」
「久しぶりだね。といっても、君らの演奏会にはちょくちょく足を運ばせてもらってるよ。」
「そうなんですか。ありがとうございます。」
「マスタングさん、お久しぶりです。」
「ああ、誰か判らなかったよ。」
「5年ぶりですからね。」
「ああ。」
「どうして、あなたは兄さんの墓にすら来ないんですか?」
「どうしてだろうね。あそこにはいない気がするんだ。」
「それを知っているなら…」
「ん?」


言いかけた顔は苦虫でも噛み潰したようだた。
彼はそれ以上何も言わず、ただ黙りこくった。
懐かしい顔は他にもいた。


「私が招待したんだよ。」


誰も彼も、5年ぶりだった。
卒業して以来、何度かの手紙のやり取りしかしていなかったのだ。


彼が偶像だった頃の空気が、そこにあふれた。
彼がいない、ただそれだけなのに、いやに胸が痛んだ。


オレは、ステージに立った。
そして、弾いた。


久々に奏でる悠久な旋律に郷愁を覚えた。
ピアノの旋律に誰かの声が重なって聞こえた。
それは天から降る福音だった。


彼の声だ。
彼が歌っている。
ああ、彼はここに居たんだ。
彼は、ここに居た。
ああ、忘れていた。
彼はミューズだったんだ。
奏でれば彼に会えるんだ。
彼に会うことができるんだ。


それはオレの手を肉体を、精神をも乗っ取った。
オレが奏でているのではない。
ああ、オレは彼に愛されていたんだ。
ああ、オレはル・べべ・ミューズに愛されていたんだ!


オレは、弾ききった。
全身を包む恍惚感。
彼は、ここにいた。


鳴り止まない拍手。


これからも、彼と共に歌えばいい。
そう、認められたのだ。


オレは、アンコールに彼の伴奏曲を選んだ。
誰の耳にも届かない彼の歌声だが、オレの耳には聞こえていた。
彼が歌っている。
彼の音がオレを包み込む。
オレは鍵盤に落ちるしずくを拭うように弾いた。


満たされた。
満たされたのだ。
やっと、満たされたのだ。


どうして、気づかなかったのだろうか。
どうして、気づくことができなかったのだろうか。
彼はそこで待っていたのだ。
やっと一つになれたのだ。
彼はミューズだったのだ。
オレが旋律を奏でた先に存在する。
彼は永遠を手に入れたのだった。
彼は全てと共鳴するのだ。


オレは彼と共に歌い続けた。







END

あとがき
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2007/04/10up

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