小休憩の合図と共に、ため息が教室に響いた。
「ロイ、何枚目?」
ヒューズが後から小突いてきた。
「2枚目の3問目。時間内ギリギリかな。」
「俺は、まだ2枚目の1問目。終わんねぇ。」
「なぁ、ロイ。1枚目の2問目って、これであってるんだっけ?すすまねぇの。」
わらわらと机の周りは人だかり。
糞餓鬼の様子はわからなくなってしまった。
矢継ぎ早に跳んでくる質問をかわしながら、自分の答え合わせもした。
「終わった。」
よく響くボーイソプラノ。
教室にいた全員が、声の主に視線を移した。
大きく背伸びをしながら、シャーペンの芯を収めていた。
「おまえ、もう終わったのか?」
「終わった。」
その瞬間、答えを見せろと糞餓鬼に群がっていく生徒たち。
糞餓鬼は全問正解と思われるプリントを抱えて、逃げた。
そして、オレの前に立つと、そのプリントを渡してきた。
「どういうつもりだ?」
「オレの代わりにこれを死守しろ。」
「は?」
と、オレの返答を聞かぬまま、押し付けてどこかへ駆けて行った。
糞餓鬼が何を考えているかなんて、皆目見当もつかない。
とりあえず狼の群れから羊を守れと言われた気分だ。
自分の身さえ、危うい状況だがオレも各言う狼だということを羊は知らないのだろうか。
ここまで危険視されないと、逆に手を出せなくなってしまっているのもまた現実。
羊を教科書の下にしまいこむと、見なかったことにした。
それにまわりも賛同するかのように、見てみない振りをして、おいしそうな羊の臭いにむず痒い思いをしながら続きに励んだ。
始業の合図がやけに耳に付き、それと同時に入ってくる糞餓鬼をきつく睨んだ。
こちらを見向きもせず、素晴らしき洞察力と推理で見事、羊を救出した。
「さんくす。」
笑いかける顔を見るのも腹立たしかったので、見ない振りをして問題に集中した。
終了20分前。
おもむろに、暇そうにしていた糞餓鬼が席を離れると、不釣合いにも甚だしい教卓の前に立つと、1問目からの解答を事細かに書き出した。
いつもなら、面倒な補助計算などはすっ飛ばして答えを出す糞餓鬼は、見事解説も要らないほどの模範解答以上のものを黒板に書いていった。
黒板とチョークのぶつかる軽い音は、耳障りこの上なかった。
字が汚くて、とても読めるものではない。
しかし、自分でも気づいているのか、所々で文字を書き直している。
はじめは律儀に黒板消しを使っていたが、今はもう小さな細い手のひらを使って消している。
手が汚れていくのも腹立たしく思えた。
2問目まで解答を書くと、こちらを振り向いた。
「途中のヤツも、そうじゃないヤツもこっちを向け。」
中には向かない奴もいたが、大半の奴らは糞餓鬼が黒板に回答を書き始めたときからその姿を凝視していた。
「これが、1問目と2問目の模範解答だ。3問目以降はこれから書く。解いてない問題については、プリントの裏にでも書き写して、自分が解く時に参考にするように。」
ここまで言うと、上下に重なった黒板をずらした。
1つの黒板に2問しか回答できていないのは、事細かな模範解答もあるが、身長上の理由で、3分の2より下しか書かれていないことにある。
上下された何も書かれていない黒板が埋まれば、上に行ってしまった黒板の内容が消されてしまうことにようやっと気づいたオレ達は、慌ててそれを写し取った。
ちらちらと、糞餓鬼を視界に入れては見ても、無心でただただ模範解答を綺麗な字で書こうと努力していた。
糞餓鬼の解答とほぼ同じ答えを書いていたオレは、赤ペンで注釈を入れる程度に納まっていた。
再度黒板が上下するまで、3枚目の2問目、最後の問題を解くことにした。
終了5分前、最後の回答が、見やすいようにと上に上げられた。
回答が始まる少し前に解き終わったオレは、ファーストに滑り込みセーフをもらった気分になっていた。
こちらも、見事正解。
安堵と達成感を一つ吐いて、焦心している糞餓鬼を根拠のない優越感で眺めた。
終了の合図が鳴り止んでも、いっこうに席を立つ気配がないのは、誰もが必死に板書していたからだ。
一人オレは、席を立って教室を出た。
糞餓鬼は何やら、物欲しげな幼児のような視線をこちらに向けたが、なぜか見てみぬ振りをしてしまった。
「次の教室は物理室だぞ、間に合わなかったら生物の演習問題の比じゃないぞ。」
出頭にそう叫んで生物室を後にした。
週代わりで、生物が2時間の日と物理が2時間の日がある。
今週は生物が2時間続きだった。
本日の物理は、前回の演習問題の総復習だろう。
演習問題が続くと、考査が近いという実感がわいてくる。
遠のく教室から、わらわらと片づけをする音が聞こえる。
1番手は誰かなと後ろを振り向くと、荷物を持たず立ち呆ける糞餓鬼が見えた。
それを確認すると同時に、教室からヒューズたちが走って出てきた。
誰の目にも、糞餓鬼のその姿は入っていなかったようだった。
クラス全員で小走りに物理室へ向かった。
最後の一人が席に着くと同時に始業の合図が鳴る。
息が切れているガリ勉はさておき、ひとつ見渡しても、糞餓鬼の姿は無かった。
道に迷ったか、ボイコットするか、それとも教育実習生としての何かがあるのかは知らないが、授業を受ける義務というものが基本的にないので、文句の言いようもない。
まぁ、今の時間は前回の授業を聞いていなければ面白くもなんともない授業だったりするので、放置しておくことにした。
解説とは言っても、俺には必要がない。
答えがあっている。
それ以上のことは何もないのだ。
確かに、答えはあっていても、現国や漢文、古文、あの辺の文系教科はそういうわけにはいかないが、理系教科は一つの答えにそれ以上の解説は不要に思えた。
生物同様、赤ペンで注釈を入れるだけだった。
昼休みになっても教室に戻っていなかった。
帰りがけにのぞいた生物室はもぬけの殻で、消し損ねた文字が黒板に残っているだけだった。
準備室も人気がないようで、そのまま教室に戻った。
早々と昼食を食べ終わると、女子共は相変わらず黄色い声を立てながら、更衣室に向かっていった。
こういう日は、腹ごなしと準備運動を兼ねて、好きな競技を仲間内で楽しむのが通例になっている。
「先生は?」
「さぁ。」
「職員室、のぞいてくる。」
ヒューズに言われたとか、責任感とか、多分そういう類だ。
「先に行ってるぞ。」
「ああ。」
昼飯のパンの包装をゴミ箱に突っ込むと、心なしか早足で職員室に向かった。
時間には余裕があるし、授業に間に合えば大した問題ではなかった。
職員室に着いても糞餓鬼の姿は見えなかった。
生物教諭を探すと、のんきに昼飯を口に運んでいる。
踵を返すと、オレは特別棟に走った。
物好き意外は敬遠する特別棟は、生徒の声もせず、静まり返っていた。
名前を叫んでも良かったが、こんな醜態誰にも見られたくなかった。
心は荒れていた。
向こうが先にオレを拒否したんだ。
仕方がないじゃないか。
研究対象だと?ふざけるな。
こっちは真剣そのものなんだぞ。
お前がやってきてからというもの、頭から離れない。
男同士だよ。わかってるよ。気味悪いさ。
夢の事だって、あったってなくたって知るものか。
糞餓鬼だが、おまえがいいんだよ。
お前が見据えた生意気な目も、嫌味たらしい流暢な英語も、気になって仕方がないんだ。
朝だって、本なんか読んでるなよ。
確かに、研究が1番だろうけどさ。
今は高校生やるんだろ?
普通の生徒やるんだろ?
オレにどうしろって言うんだよ。
なんであんな顔してオレを見たんだ?
オレはあいつを探した。
気が付くと、体裁そっちのけで名前を呼んでいた。
くそう、なんなんだよ。
どこにいるんだよ。
放課後、一緒にカラオケ行くんだろ?
ソプラノを笑ったことなら謝るからさ。
本気で綺麗な声だと思ったんだよ。
初日から、そうだと思ってったんだよ。
「エド!」
オレの声と、ちゃちなスリッパが触れる音だけが木霊した。
稚拙な感情がとめどなく溢れてきて、なんだかこの世にオレだけしかいない気がした。
オレしかいないちっぽけな閉鎖された空間をひたすら、あいつを探して彷徨っている。
夢の中と一緒だ。
足りないから、出会えない。
足りないから。
「何が足りないんだよ。」
オレは足を止めて思わず叫んだ。
誰も聞いてはいない。
応えるものもいない。
小さな足音に我に返った。
スリッパの音ではないその音は、教師特有のきちんと脚にはまった履物の音だった。
しかし、教師は廊下を走ったりしない。
オレは、その音を追いかけた。
近づくことも無ければ、遠くなることも無かった。
ただひたすら、音を見失うことなく追うことだけに集中した。
残念、その奥は行き止まりだ。
3年間で培われた特別棟の構造分析に、一朝一夕が敵うはずがない。
見慣れた光る金髪。
影がくっきりと床に窓を縁取っている。
それをひとつひとつ踏みしめながら、羊を追い込んだ。
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