むくいをのぞまでひとにあたえよ、こは主のかしこきみむねならずや。
水の上に落ちて、流れし種も、いずこの岸にか生い立つものを。

浅きこころもてことをはからず、みむねのまにまにひたすらはげめ。
かぜにおられしと見えし若木の、思わぬ木陰にひとも宿さん。

                          【賛美歌536番/むくいをのぞまで】








An Gel

第1楽章 Muse












ほぼ全員が学生寮に入っている、この学院の朝は早い。
6時起床、7時までに朝食と身支度を済まし、教会で整列しなければならない。
教会に入れば、呼吸一つにも気をつけなければならない。
足音も、服が擦れる音すら厳禁なのだ。
神父が教壇に立てば身を正し、洗練された空気に満ちる。
そして、2階から天使の歌声が聞こえる。


これは伝統と呼ばれるもので、代々この学院で一番優秀な声楽科の生徒が2階で歌うこととなっている。
選ばれる生徒は普通、月によって変るのだが、彼は1年以上もそこにいる資格を得続けている。
それは大変誉れ高いことで、歴史古いこの学院でも初めての出来事であった。
だから、彼は特別視される当然の権利と義務を要し、羨望と妬みの対象となることもまた然り。
彼は、そこに立つ時に必ず白い制服を着ている。
本来ならば、教会へ入るときは黒の制服でなければならにが、歌う彼だけは白でなければならなかった。
彼のボーイソプラノが広い教会に響き渡る。
朝の厳かな儀式。
一言ずつ丁寧に慎重に誠実に発せられる歌声は、どこか艶やかさがあった。
旋律が満ち足りていくのを感じる。


甘美なひと時が終われば、悪夢のようなミサが始まる。
教訓と、神父が長々と講釈する。


教会を出ると、生徒は大きく背伸びをする。
しない生徒など見たことがない。
生徒は1度寮に戻り、通常の灰色の制服に身を包み、再度登校するのだ。
この行為は無駄のように思えるが、この時間があるお陰で、鬱々としたミサからの開放感を充実したものに変えることができるのだ。
黒の制服の中ひときわ目立つ白の制服の周りには、人一人寄らない。
寄ってはならないような雰囲気をかもし出し、近づけばその白さで己の存在が浄化されそうだ。


オレは寮に戻って着替えると、一目散に掲示板に向かった。
本日発表されるのは、定期演奏会の舞台割りだ。
自分の名前があれば当然喜び、無ければ落胆する。
3ヶ月に1度の定期演奏会はプロになるための、いわば登竜門である。
世界各国の演奏家や批評家かブルジョワ達が、こぞって学院の生徒の才能を見極める。
残念ながら、オレの名前はそこには無かった。
彼は当然ながら、定期演奏会の取りを務めている。
しかし、そこにあるはずの伴奏者の名前が無かった。


彼の伴奏者は毎回変る。
それは彼があまりにも、人に馴染もうとしなかったし、立候補者が多かったためだ。
舞台割の隣には、彼の伴奏者の選考会が行われると記載したものが貼られていた。
選考メンバーに選ばれたのは全部で7人。
毎度、どういう基準で選んでいるのかオレは不思議に思う。
よく見れば、今回はオレの名前まであった。


「ロイ、ル・べべ・ミューズの伴奏の選考メンバーに選ばれてたな。」
「ああ、全く持って不愉快だ。」
「光栄じゃないか?」
「馬鹿言え、オレはソロで定期演奏会に出たいんだ。」
「リザの名前は出てたな。」
「オレも、選考メンバーまでは行けるんだがなぁ。何がいけないのか。」
「さて、」


専攻の授業は大抵午後から行われる。
それまでは普通の生徒と変らず、数学や、地学などを学ぶ。
音楽の学校と言えど、我が学院はレベルが高い。
演奏家として挫折しても、弁護士や医者となるものもが多いのはそのためだ。
そんな学院で俺は文武両道とも呼べる、優等生に位置している。
考査では首位独占中だし、選考会にも毎回名前が挙がっている。
しかし、定期演奏会にだけは出場したことがなかった。


「選考会の曲目は『むくいをのぞまで』今朝、ル・べべ・ミューズが歌ってたやつだ。」
「あれは、難易度が高いんだよ。」
「めずらしいな。お前が弱音を吐くなんて。」
「言っておけ、やる気がないだけだ。」


選考会は来週の水曜日。
あと5日。
オレは、一応とばかりに楽譜を用意し、目を通した。
難易度Sクラス。
これを弾きこなせるのは、この学院で一握りくらいだろう。
オレは鍵盤に指をのせ、奏で出した。


「ロイ、あんたル・べべ・ミューズの伴奏の選考メンバーに選ばれたんだって?」
「リザ。」
「私は、ソロよりそのほうがいいわ。」
「そう思うのはお前がミーハーだからだよ。」
「あら、ル・べべ・ミューズ以外の演奏者なんて、ただの前座に過ぎないわ。」
「その前座で輝くからこそ、意味があるんだろ?」
「彼の声の前では、全てが屑よ。」
「言ってくれるね。」
「あなたは、それに選ばれる権利を得たのよ。光栄と思わなきゃ。」
「君はソロと伴奏なら、伴奏を選ぶのか?」
「勿論。彼を最高に輝かせることができたなら、それに勝る栄誉も何もないわ。」


あっと言う間に5日が過ぎた。
選考会のため、午後からの専攻過程は全て休講。自主練習となる。
そこまで時間と労力を裂くほどの価値があるのは、誰もが認めているため、至極当然の事象として認識している。
彼は特別なのだと、誰もが尊敬と敬愛の眼差しで愛した。


部屋に入り、曲を奏で部屋を出る。
それが選考会であり、それ以上のこともそれ以下のことも行われない。
ただ今回はいつものそれとは違い、そこにはル・べべ・ミューズがいた。
押し黙り、耳を研ぎ澄まし、旋律を纏っていた。
学年も違うため、歌うことをしないでじっと何かに聞き入る彼を見るのは初めてだった。
彼はいつも注目の中で、脚光を浴びている。
洗練された空気を纏って、心を清く染め上げる。
しかし、今ここにいるのはただの少年だった。


オレは彼を一瞥し、椅子に座った。
そして、ピアノとともに歌った。
それが終わると、静かに退場する。
選考会は終了だ。


次の日、オレは驚きに包まれる。
落ちていること必死で、掲示板すら見ずに授業に赴いていた。


「ル・べべ・ミューズの伴奏、お前に決定だって。」
「は?」
「だから、ロイ、お前が選ばれたんだよ!」
「はぁ。」


選ばれた理由がわからなかったが、授業が終わるとオレは手続きをするために総務課に向かった。
手続きさえ取っていれば、定期演奏会の練習のために授業を欠席しても、出席扱いになるのだ。
午後からは練習棟は生徒で溢れるため、このような特権待遇が付与されるのだ。
事務員から1枚の紙が手渡され、練習の予定が記載されていた。
早速本日の5時から、講堂で練習となっていた。
曲目は以下の通り。
La Farfalletta 蝶々
Qando incise su quell marmo あの石に刻んだ時
Il fervido desiderio  熱い願い
Marinconia、Ninfa  gentile  マリンコニーアよ、やさしい妖精
Ma rendi pur contento  喜ばせてあげて (六つのアリエッタ第6曲)
流石に多い。
彼の歌を聴きにくるためだけに地球の裏側から来る有閑貴族もいるくらいだ。
他の演奏者は、リザではないが彼のための前座と考えても、申し分ない。


「あー、はじめまして。エドワード・エルリックです。声楽科2年です。」


深々とお辞儀をするそれは、普段彼から見て取れる高貴とかそういう言葉は見て取れなかった。
どちらかと言うと、柔和なイメージをかもし出していた。


「ロイ・マスタングです。ピアノ専攻科3年です。」


例に挙げるなら、オレの所属するピアノ科は、ピアノ科とピアノ専攻科に分かれている。
違いは中等教育か、高等教育かということだけで、本質的には変らない。
それぞれ、進級査定などもあるが、大抵の生徒はそれに合格し、高等教育に進む。
中途入学者もこの間に入るが、逆に挫折し退学していく生徒もこの間に辞めていく。
定期演奏会の演奏者は大抵専攻科から選ばれるが、彼は入学直後から選考会入りし、2回目の定期演奏会から常連となり、それと同時期に賛美歌を歌うようになり、前代未聞のミューズの称号を得た。
しかしながら、彼はまだ専攻科ではないため、頭に“ル・べべ”が付いているのだ。


はじめて近くで見た彼は、この世のものとは思えないくらい美しく創られていた。
蜂蜜色の金の糸は艶やかで、絡まることを知らなさそうだ。
珍しい琥珀色の瞳は、深く淑やかな視線を生んでいる。
肌も人のそれとは思えないくらい、白く澄んでいる。
それに浮かんだ紅い唇は、濡れており淫猥な香りがしそうだ。
細い肢体は、どこからあんな声が出てくるのだろうかと、不思議に思うほどだ。


「あんた、綺麗な顔してるのな。ギリシャの神話から出てきたみたいだ。」


しっとりと覗き込むように見上げる彼は、艶かしかった。
詩人さながらの彼の言葉は、それだけで旋律を奏でているようだった。


「ル・べべ・ミューズ、あなたに褒められるなんて、光栄極まりないです。」


意地の悪いしゃべり方をしてしまったかなと、オレはル・べべ・ミューズの顔色をうかがった。
すこぶる上機嫌を映し出したその顔の裏では、怒りがこみ上げているとすぐわかった。


「ル・べべ・ミューズ。オレはその呼称が嫌いで仕方がない。」
「そうかい?では、なんと呼べば良い?」
「普通に名前で呼べばいいだろう?」
「それは、ミューズに対して恐れ多い。」
「やっぱり、あんたも違う名前で呼んではくれないのか。」
「誰しもが、あなたを尊敬し、憧憬の念を抱く。」
「オレは、ただの餓鬼だよ。」
「それは己の見解であって、他者が望む姿ではないな。」
「オレは、そんなこと求めていない。」
「求めようが求めまいが、それが事実であり、現実だ。」
「認めない。」
「現に、あなたは白い制服を着て賛美歌を歌い、定期演奏会には異例の曲数で出演する。」
「それは…。」
「では、認めるのがあなたの責務であり義務であると、思うのが定石だろう。」


黙りこくる彼は、今にもその大きな瞳から涙を流しそうだった。


「ル・べべ・アムール。あなたが悲しむと、学院が騒然とする。」
「オレは、悲しむことすら許されないのか?常に気丈に優雅に振舞えと望むのか?」
「それが嫌ならば、全てから逃げてしまえば良い。」
「オレは、ただ歌いたいだけなのに…」
「では、全てを諦め、受け流していけばいい。そのうち君の声は…


オレは頬に衝撃を感じた。
脳の芯から痛む。


「そうだよ。声変わりが来たらオレは終わりさ。だが、声変わりが来たらだがな!」


左手を押さえ込む彼は、歌うそれとは違う呻くような声を発していた。
年のそれよりも幼く見える彼は、これ以上成長しないとばかりの、危うさを持っている。
それが真実であり、事実ならば、彼は一生ミューズには成れず、ル・べべ・ミューズのままなのだ。


「誰が?」


恐ろしい気持ちでいっぱいになったが、聞かずに入られなかった。
聞くことで彼を攻め立て、貶めていることに気づいてはいたが、それよりもル・べべ・ミューズのスキャンダルに興味が注がれていた。
多分、大いに腫れているであろう右頬の仕返しも含まれていた。


「一流ゴシック気取りか?いいよ、あんたになら教えてあげる。」



彼はオレの胸倉を掴み口元に引き寄せた。
甘美な声で彼は囁く。


「神父だよ。」


そして、オレを突き飛ばして笑い始めた。
その声が講堂に響き渡る。


「まさか。」


オレは聞く耳を疑った。


「まさかなもんか。あれは修道だよ。オレはあいつに何度も抱かれ、そして、玉を切られた。」


その顔は泣いていた。
美しく大きな瞳を見開いて泣いていた。


「いままでの伴奏者もそうだ。オレを手篭めにした。あんたも、そうだろう?」


ピアノにもたれかかり、こちらをにらむ。
その眼光は鋭く、射るようなものだった。


「それは懺悔か?」
「いや、違う。」
「では、なんだ?」
「これがオレの免罪符だ。ミューズなんかでは無い。わかっただろう?」
「それでも、その仮面をかぶらなければならない。」


静に泣き止むと、こちらを見据えた。


「あんたは、他とは違うみたいだな。」
「それはどうも。」
「オレのこと、ル・べべ・ミューズだなんて、思ってもいないだろう。」
「そんなことはありませんよ。」
「その揶揄する口調がそうだよ。」


オレは軽く笑って、同じようにル・べべ・ミューズを見据えた。
確かにこいつは神に近いところにいる。
贄を神に捧げ、その賜でル・べべ・ミューズという玉座に座っている。


「選んで正解だ。オレとあんたは似てる。」
「それはそれは、光栄でございます。」


そういうと、彼は大きな声で笑い出した。


「今の、本気にした?」


訳がわからない。


「冗談だよ。たまは健在だよ。」


ル・べべ・ミューズはとんでもない糞餓鬼だ。
大笑いする目の前の糞餓鬼は、それでも、誰よりも高貴で気高いものだとかんじた。




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2007/04/25up

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