慈しみ深き友なるイエスは、罪、咎、憂いを取り去りたもう。
心の嘆きをつつまず述べて、などかは下さぬ、負える重荷を。
慈しみ深き友なるイエスは、我らの弱きを知りて憐れむ。
悩み哀しみに沈める時も、祈りに応えて慰めたまわん。
慈しみ深き友なるイエスは、変らぬ愛もて導きたもう。
世の友われらを捨て去る時も、祈りに応えて労りたまわん。
【賛美歌312番/いつくしみ深き】
An Gel
第2楽章 Clownish
このとき既に、定期演奏会まで1ヶ月を切っていた。
曲数5曲。
譜面自体はさほど難しいものではなかった。
暗譜はしなくてもいいらしいが、それでも、誰かとあわせることすら初めてのオレは戸惑いの中にいた。
「ヘ・タ・ク・ソ」
ああ、殴ってやりたい。
先日の暴挙のお陰か、打ち解けるまでに時間を要さなかった。
彼は、よく笑い、良く怒ったし、足癖も悪かった。
つまり、お高くとまっているのは仮の姿で、実際はとてもフランクで明るい奴だった。
「1ヘルツも音がずれないお前がおかしいんだよ。」
オレの耳にはそこまで聞き分けることができないが、彼は音を与えずとも正確にその音を奏でることができた。
気づいたこと、こいつはミューズと言うより、それに愛されているということだ。
そして、その曲がこいつのためだけに作られたかのような錯覚を覚えさせる。
つまりは、天才なのだ。
聞けば、こいつも学年主席らしい。
天は2物も3物もこいつに与えている。
平等くそくらえ。
「ロイは、急ぐ癖があるんだよ。もうちょっと空気を纏えばいいんだ。」
そして、歌う。
オレはそれにならった。
オレ達はほとんどと言っていいほど、授業に出なくなった。
たかが1ヶ月、されど1ヶ月。
次の考査が気になってはいたが、それよりも、こちらに没頭した。
なにより、楽しかったのだ。
はじめてピアノの講師に褒められた瞬間とか、はじめて曲になったときとか、それと同じ感覚がこいつとの練習にはあった。
「よ、特権階級。次の考査では俺が一番かな?」
「ヒューズ。」
「どうだい?ル・べべ・ミューズは。」
「糞餓鬼だよ。」
「そんなこと、信者に聞かれてみろ、殺されるぞ。」
「殺されたほうがいくらかましだ。」
練習は鬼のような地獄の特訓だった。
朝から晩まで、見事にピアノの前でしごかれている。
相性が悪いのではないかと思うほど、あわせることができていない。
口の悪い我がル・べべ・ミューズは、最近は口だけではなく、足も付いている。
椅子を蹴るくらいならまだしも、そろそろピアノも蹴り上げそうだ。
「あの、糞餓鬼スパルタだ。」
決して、オレはヘタクソではない。
定期演奏会に出られないと言うこと以外はパーフェクトなのだ。
学院に入るまでは神童と称され、サロンでは引く手数多だったし、もちろん専攻過程も、考査の対象となっている。
それで1番なのだ。
「ま、頑張れ。」
軽く言ってくれる。
しかし、練習すればするほど、言葉に表せない歓喜を覚えた。
オレの奏でるそれが、初めて音楽と呼べるものになっている。
ル・べべ・ミューズの旋律がオレの旋律にうまく乗った瞬間、最高の快楽を得られた。
「相性、最高だな。これだけの快楽の波に流されるのは初めてだ。」
心臓が大きく打つ。
悦楽。
こいつの声にあわせることが、これだけ気持ちのよいことだとは知らなかった。
そして、定期演奏会がやってきた。
オレは、はじめて演奏する側に立ち、それがル・べべ・ミューズの伴奏だと言うことを始めて誇りに感じた。
緊張すらも、今のオレの前には絶頂のための前戯だった。
1曲目はアカペラ。
音を合わすことすらしないル・べべ・ミューズは見事、その音を発する。
ホールに響き渡る歌声。
音と言うにはあまりにも上質で、それは言い表せない感覚で、五感を刺激した。
2曲目からはオレの伴奏が付く。
そして、オレは快楽の波の中で溺れた。
いつまでも、いつまでも、オレはこの快楽の中にいたかった。
指先が軽い。
ピアノもル・べべ・ミューズに共鳴している。
オレが伴奏しているのではない。
ミューズが音を占拠し、オレを操っている。
演奏しているのではないのだ。
「次の選考会で、あんたはソロでピアノが弾ける。」
「え?」
「あんたの演奏に足りなかったものが、備わったからだ。」
ル・べべ・ミューズは本当に天使のような微笑でオレに笑いかけた。
「ミューズはお前に祝福する。」
オレは最高の栄誉を手にした。
オレの手を取り口づけする様は、神から何かを賜るような行為に見える。
「あのさ、オレ、お前の伴奏続けたいと思っているんだ。」
「は?何言ってんの?あんたはこれから才能を認められる権利を得たんだ。自ら放棄してどうする。」
「今日の拍手を聞いたか?お前の音を最大限引き出せるのはオレだけだ。」
「自惚れるな。」
ル・べべ・ミューズは癖の悪い足で、控え室の机を蹴り上げた。
花束や貢物が無残にも投げ出されていく。
大きな音を立てて机は倒れた。
「自惚れか?自惚れているのはお前だろ?ル・べべ・ミューズ。」
「オレが自惚れてるだと?」
「オレ以外の誰の伴奏でも、今日のような音が出せると言うのか?」
「そうだよ。今までも、これからもそうだ。」
「違うな。お前はもう、オレ以外の伴奏では歌いきれない。」
「違う!」
「違わない。」
本当は、オレが恐れていた。
手に入れたものは大きすぎた。
それはもう、手放すことができなかった。
しかし、こいつもそうなのではないか言う自信だけはあった。
「今までの、伴奏者とオレは決定的に違っただろ?」
「そ、それは。」
「お前の音を最大限に引き出せるのは俺だけだ。違うか?」
「そ、そうだよ。初めてだよ。あんたを手放したくないんだよ。」
普段の彼とは違う、まるで子供のような表情。
顔をぐしゃぐしゃにして、オレにすがってくる。
オレだけの特権だ。
他の誰にも渡してなどやらない。
「よく言えました。」
そして、オレはル・べべ・ミューズを引き剥がし、その御前に跪いた。
「ル・べべ・ミューズ。わたくしはあなたに永遠の誓いを立てます。」
そして、御手を取り、口付けた。
「あなたの御許で、わたくしに最高の快楽と栄光をお与え下さい。」
彼は、笑った。
その顔は、教会に描かれている天使のそれだった。
慈悲と敬愛…すべての慈愛を身に纏いそれを与える。
ル・べべ・ミューズ。
いや、ミューズに愛されし神の子よ、我を導きたまえ。
しかし、次の定期演奏会の選考メンバーにオレの名前は入っていた。
「あ、オレが頼んだ。」
「なんだと?」
「お前、オレの伴奏と、ソロ、両方やれ。」
「は?」
「オレの曲目はもう、練習してるだろ?大丈夫。お前ならやれる。というか、やってもらわねぇと困るんだよ。」
「お前の都合か?」
「いや、あんたの。」
定期考査で、オレはなんとか主席にかじりついた。
猛勉強の末でだ。
しかし、そのお陰でオレは極度の睡眠不足と、注意散漫で授業中に寝こけると言う失態を犯した。
シスターや教師から叱られると言う行為をはじめて受けた。
大スキャンダルだ。
選考メンバーに選ばれずとも、定期演奏会にはそれよりも栄誉のある演奏者として出場すると、高をくくっていた。
選考メンバーに選ばれれば、その課題曲を練習しなければならないし、それは断ることすらできないものであった。
世間では、ル・べべ・ミューズに選ばれたと、オレが鼻高々で気が抜けているのだろうと思われているようだった。
その払拭作戦がこれらしい。
「あのな、人の噂なんて放っておけばいいんだよ。」
「だがな、仮にもル・べべ・ミューズの伴奏者だ。しかも前代未聞の2回目の。」
「実力を測ると。」
「本来ならば、お前はこの時点でソロでの演奏を確実に約束されていたんだ。それなのに…」
「わかった。わかった。ようは受かればいいんだろ?」
「投げやりなのに、自信たっぷりだな。」
「まあな。オレにはル・べべ・ミューズが付いている。」
「生き神か?」
課題曲は大抵、誰も練習したことがないようなマイナーな曲が選ばれる。
ぞれにプラスされて自由曲が2曲。
これは選考審査時にどちらか1曲がその場で指示される。
選考会まで2週間を切っている。
しかも今回は、お茶会と称される多額の寄付金を納めているブルジョワの集まりでの演奏が控えている。
当然ながらル・べべ・ミューズがそれに出席する。
いい演奏ができれば、それだけ寄付金が集まるのだ。
毎度、乗り気ではないと言う彼は、いまいち練習にも身が入っていない。
「歌うのはいいんだよ。問題はその後だ。おしゃべりの相手までするなんて、気が重いんだよ。」
不定期に行われるこのお茶会は、自分を売る最大のチャンスである。
ル・べべ・ミューズ以外にも、それぞれの科から数名選ばれる。
指名するのはもちろん、ブルジョワ達だ。
定期演奏会で見つけた各々のお気に入りを指名し、お茶会に参加させる。
「わたしも、お茶会に出席するわよ。」
「だろうな。」
「あと、弦楽科からは例の2人。あと、管楽科からも何人か。」
「へぇ。」
「いいわよね。ピアノ科って、おこぼれに預かって伴奏ができるんだもの。」
「おまえは、それの常連だったろ?」
「まあね。でも、肩身が狭いわよ。誰も、話しかけてくれないもの。隅でちっさくなってるのがおちね。」
「あはは、今回はオレもその仲間入りか。」
ヒューズは管楽科の伴奏を頼まれているらしい。
伴奏ね。
今となっては、妙にすんなりと納まってはいるが、つい先日まで頑なに拒否していた頃が懐かしい。
とはいっても、ル・べべ・ミューズ以外の伴奏をしようとは思わない。
「いいか、言っておく。オレが何されようが、どこに連れて行かれようがお前は一切関与するな。そして、興味を持つな。気にするな。」
「は?」
「絶対に、お前は会場から外に出るな!」
そう、うるさく言うこいつは華やかなフリルのシャツを着ている。
定期演奏会とは違い、主役はドレスなどで身を飾ることを強制されている。
もちろん、ブルジョアが指名した生徒にプレゼントするのが通例らしい。
「見ないでもらえる?」
「そう言われても、待機室が一緒だし。」
「それでも、見みないでほしんだけど。」
リザは、見事な真紅のドレスに身を纏っている。
他のそれとは違うシンプルなドレスに、趣味の良さを感じた。
しかし、胸元が大きく開いているのは、どういった趣向だろうか。
しかし、伴奏者は黒の制服で出席。
さびしい限りだ。
オレは最後の演奏で、ル・べべ・ミューズとは別室待機のため、暇をもてあましていた。
今回は4曲。アカペラなし。
譜面を持って袖で待機する。
後に人の気配を感じて振り向くと、ル・べべ・ミューズが神妙な面持ちで立っていた。
緊張しているそれとは違う空気で、オレは思わず息を呑んだ。
演奏は好調。
波に呑まれるこの感覚は、すでにオレの五感を麻痺させていた。
呈のいい麻薬だ。
でも、今回は少しおかしかった。
ル・べべ・ミューズの音には淫猥さがあった。
曲目的にも間違ってはない歌い方だが、誰かを誘っている、そんな感じだった。
オレは更にその音に酔った。
背筋がゾクゾクと、指先の神経までがその毒に侵された。
まだ、恍惚感の中にいたオレの背中を思い切り蹴り上げ、罵声を浴びせる彼は、ル・べべ・ミューズとは到底呼べない糞餓鬼だと思う。
先ほどまでの彼はどこに行ったのだろうか。
「この変態。さっきので起ったか?」
「馬鹿言え。」
「お前は絶対にオレに話しかけるなよ。知らぬ顔して隅でかたまってろよ。」
「わかったよ。何度も聞いた。」
「それなら、いいよ。」
気になるが、気にしてはいけない。
お茶会は順調に進んでく。
あちらこちらで会話に花が咲いている。
お気に入りの生徒を呼び、話を弾ませる。
オレ達は見事蚊帳の外だ。
まぁ、見ていて、聞き耳を立てていて面白いので、文句は言わない。
「リザのところの奴無駄に若くないか?」
「そうだな。年もそう変らないように見える。」
「あれは、ハボック公爵のところの嫡子のジャン様ですよ。」
「へぇ。」
「年も、あまり変らなかったと思います。」
「ぼんぼんめ。で、あのドレスか。」
「見る目がいいな。」
確かに、リザは気立てもいいし、美人でスタイルもいい。
嫁選びかよと、オレ達は舌打ちをした。
しかし、当のリザは、嫌な顔一つ見せず、話を弾ませているようだ。
「やっぱり、あそこは人がすごいですね。」
「ル・べべ・ミューズ。」
「あれは別格…どこにいくんだ?」
「さあ。」
客の一人が彼を連れて席を立つ。
そのまま会場を後にし、残されたブルジョワたちは彼らでまた花を咲かせていた。
成金趣味のブルジョワ達の会話はここからでは聞こえなかったが、誰もがやらしい顔つきをしていた。
気が乗らない理由もわかる。
彼が戻ってくるまで、1時間弱。
そして、また別の客が彼を連れて出て行った。
そしてまた、1時間弱。
彼らはお茶会が終わる頃に戻ってきた。
「なにやってたんだ?」
「さてね。いつものことだよ。」
オレ以外は、お茶会のお味噌の常連だった。
「彼がお茶会が終わるまで、ここにいたのを見たことがないよ。」
「へぇ。」
お茶会は滞りなく終了。
いやに上機嫌のリザは、頬を薄桃に染めていた。
どことなくのろけを含んだ彼女の会話に、オレ達は少々呆れていた。
弦楽科の2人組がオレに近づいてきてるとは気づかずに、オレ達はリザをからかっていた。
強い力で後に引かれると、同じ顔が二つあった。
よく見ると、片方は琥珀の瞳をしていて、もう片方は翡翠の瞳をしていた。
「あなたが、ロイ・マスタングさんですか?」
「そうですが、なにか?」
彼らは弦楽科2年。
つまり、ル・べべ・ミューズと同じ学年だ。
彼らもまた、神童と呼ばれ、定期演奏会とお茶会の常連だ。
名前は…
「ボクはアルフォンス・エルリックです。」
「ボクはアルフォンス・ハイデリヒです。」
「兄がお世話になってます。」
ああ、ル・べべ・ミューズの弟。
兄弟ではないらしいが、彼らは良く似ており、二人はペアの演奏者でバイオリンとヴィオラをそれぞれ演奏している。
それは秀逸で、聞き惚れないものはいない。
ル・べべ・ミューズと同じで、彼らもまた特別視された人種だ。
「率直にお聞きします。あなたは兄のなんですか?」
「はい?伴奏者ですが…。」
「そうですか。」
遠くからけたたましい足音が聞こえる。
「アルー!!」
「兄さん。」
がしりと弟に間違わずにしがみついた。
その場にいたヒューズとリザは目を丸くして驚いている。
そりゃ、そうだろうとも。
普段の彼の様子からは、想像もつかない。
「久しぶり。何?どうしたんだ?」
「ちょっとね、兄さんのお気に入りを見ておきたかったんだ。」
「お気に入り?誰が?」
ダブルアルフォンスはオレを指差す。
「お前、オレのお気に入りなのか?」
「いや、オレに聞かれても困る。」
それから、用は済んだとダブルアルフォンスとル・べべ・ミューズは立ち去った。
ル・べべ・ミューズは他の生徒とは違い、個室が与えられている。
歴代のミューズが個室を与えられていたわけではない。
彼はどういった事情かは謎だが、そういった処遇だ。
彼は厳重に管理されたスケジュールに身をおいている。
起床時間も他の生徒より早いため、10時には就寝するように義務付けられている。
4時半には起床し、ミサに備えるのだ。
5時くらいまでは声が出にくいという彼は、起床からそれまで勉学に励む。
5時を過ぎると、教会で練習を始める。
早起きをすれば、彼の音が教会から聞こえてくると言う訳だ。
それを聞くためだけに、早起きをする信者も少なからずいた。
6時を過ぎれば、朝食を食べに食堂へ赴く。
食べた後も、すぐには声が出にくいという彼は、他の生徒が集まるまでには朝食を済ませていた。
7時には歌いだすため、そそくさと、白の制服に着替え2階へと向かう。
白い制服で食堂へ行くなど言語道断なんだ!
授業もほとんどと言っていいほど、出席していない。
それでも、首位を独占しているので、教師軍も文句が言えない。
だから、弟といえども、会う機会がないのだろう。
「いや、だからさ。久々に会ったからだよ。」
「何も咎めてないのに、勝手に言い訳をしているのはそっちだ。」
「なんだよ。聞きたいことがあるような顔しやがて。」
オレが聞きたかったのは別のことだ。
お茶会の日、どこへ行っていたかだが、聞かないでくれとうるさく言われた手前、聞けずにいた。
噂は色々。
初対面のあの日のこいつの言動もそうなのだが、そういう行為を強いられていると。
誘っているなんて話もあったが、それはないと思いたかった。
第一、そこまでして何が得られるというのだろうか。
「なにもない。練習しよう。」
「…。」
「なんだ?聞いて欲しいのか?」
「聞きたいんだろ?」
「オレは、約束は守るさ。」
「じゃあ、そんな顔してオレを見るなよ。」
「この顔は生まれつきだよ。お前の心にやましさがあるからそう見えるだけだ。」
「…。いいよ。練習しよう。」
ふてくされた顔。
まだまだ餓鬼だ。
ここで、オレが聞けばル・べべ・ミューズはどうなっていただろうか。
「アルと、アルフォンスって呼び分けてんだけど、二人似てると思う?」
「瞳を見れば区別が付くが、他は一緒だろ。」
「うーん、別に親戚でもなんでもないんだけどな。」
「そうなのか?」
「血縁関係は全くなし。でも、そっくり。不思議だろ。」
「へぇ。」
「調律師のロックベルっているだろ?あれと、オレと弟が幼馴染なんだよ。」
「じゃあ、お前の周りは天才ばかりか。」
ウィンリィ・ロックベル。
病的なまでに音を聞き分ける天才調律師。
彼女は音叉を使わずに正確に調律する。
そして、早い。
ロックベル家が代々この学院の調律を請け負っている。
彼女の祖母が引退し、今は彼女一人でこの広い学院の数多いピアノの調律をこなしている。
もちろん、彼女もここの生徒でもある。
「オレ、親とかいなくてさ、ロックベル家で育ったといってもいいくらいだ。」
初耳だ。
「だから、オレと弟は特待生を維持しなければならない。ま、才能もあるしな。」
彼らの境遇は、きっとゴシップになっていただろうがオレは興味の対象から外れていたため、知ろうともしなかった。
それをその時知っていたなら、彼に対する言葉のかけ方も違っていただろうか。
いや、知っていたならル・べべ・ミューズはオレを選んだりはしなかっただろう。
彼はそういう視線を嫌う。
「でさ、お前、噂とか聞いたりしたか?」
「あの席では自然と耳にする。」
「そっか。」
「別にそれについてオレは興味を持たない。そう約束したからな。」
「ありがとう。」
その時見せた彼の表情は、救いを求める子羊のようだった。
雨に打たれ、草もない荒野で、ただ一人立ちすくんでいるそれだった。
オレは、手を差し伸べるべきかと悩んだ。
オレにできることはこいつの音を最大限引き出すだけだ。
それ以上でも、それ以下でもない。
オレ達の時間が少しずつずれ出したのはそれからだった。
いや、はじめから重なってはいなかった。
重なっているのは旋律上の音の駆け引きだけであって、オレ達は…、少なくともオレはそれ以上の関わりを持つことをしなかった。
選考会用の曲の練習を始めたオレは、個人の練習時間を延ばした。
とはいっても、9時ギリギリまで彼と練習した。
授業に出て、専攻の授業を受ける。
少なくとも、5時までは体が自由にならない。
夕飯を食いっぱぐれるわけにも行かず、6時には食堂で腹を満たす。
で、大体7時から練習が開始される。
それまではほとんどの時間を彼と共有していたが、そうとは言っていられなくなった。
「まあ、普通だろうな。学生の本分は勉強だし。」
「その間、オレは一人で寂しく練習。」
「授業に出ろよ。」
「馬鹿言え、あんな稚拙な授業受けるだけ無駄なんだよ。」
「この学院かなりレベルが高いと思うが。」
「飛び級して、ロイと同じ学年にでもなってみるかな?」
「嫌味か。主席は譲らんぞ。」
「いらねぇよ。勝手に主席になってるだけだ。」
「八百長だったのか?」
「ばーか。全教科満点しか取れないんだよ。」
「それはそれは。」
「じゃ、オレは寝る。ロイは、まだ練習するのか?」
「そうだよ。おやすみ。」
ル・べべ・ミューズの練習には講堂があてられている。
そのため、自分の練習をするのにオレは練習棟へ足を向ける。
練習棟は寮の裏手にあるため、自然と送る形になる。
そのまま講堂で練習すれば言いとル・べべ・ミューズは言うが、そういうわけには行かない。
規則は守らなければ。
これから、2時間ほど練習して寮に帰る。
点呼などは練習の都合上行われないが、12時を過ぎても練習することは基本的に認められておらず、それを過ぎれば寮の扉は施錠されてしまう。
「なぁ、オレもついて行っていいか?」
「明日、声が出なくなるぞ。」
「う…ん、じゃ、やめとく。」
「そうしておけ。」
何度かそういう会話をした。
あまり一人では居たがらない彼は、一人部屋を嫌っているようだった。
その割りに、オレや兄弟以外とは一定の距離を保っている。
時に昼食時、ヒューズ達の輪に招くこともしばしばあったが、それでもオレを通しての会話だったりと、人見知りの激しさを目の当たりにして、驚いている。
割と早く打ち解けられたオレは、どういう基準だったのだろうか。
彼の思惑通り、オレは定期演奏会で演奏することとなった。
午前はル・べべ・ミューズと練習。午後からは定期演奏会の練習。
見事にまた、授業に出ない日々が続いた。
それでも、オレは頼りないランプのあかりで遅れを取り戻した。
考査中は一切の練習が禁じられる。
といっても1日半だ。
1日目は12教科、2日目は7教科の考査が行われる。
練習する暇がないといえばそれまでだ。
そして、どうにか主席にかじりついた。
今回は前回とは違い僅差ではなく、通常通りの大差だ。
「お前、いつ勉強してるんだよ。」
「君ら凡人にはわからないさ。」
勉強時間は確かに減ってはいた。
しかし、オレの脳みそは、水を吸う海綿のように、どんどん知識を吸収した。
「ああ、それはオレのお陰だよ。」
「はい?」
「オレの声?脳みその活性化に効果的らしい。」
「はぁ。」
「常にオレの声を聞いてるからだろうな。」
確かにそうかもしれないと、思わせるところが不思議なところ。
いや、実際にそうかもしれない。
ル・べべ・ミューズとして教会で歌うようになってからというもの、学院の学力レベルは数段に上がっているらしい。
なんたって、バカロレアへの現役入学者の数が圧倒的に増えたという、事実もあるのだ。
「なあ、ロイ。今度の日曜、外出届もらって、街に行こうぜ。」
「そういうのは学友や弟としてろ。」
「いいじゃん、行こうよ。」
徒歩1時間下ったところに町がある。
そこでは、週に1度の外出を満喫するものもいれば、苦学生はバイトをしていた。
大きな町ではないが、迎賓の宿泊先などもあるため、それなりの町だ。
「ああ、買い物もあるし。いいか。」
オレはランプの油を支給以上に使っているため、自腹を切ることにした。
事情を説明すれば免除されるのだが、それだけは嫌だったので、財布の紐を解くことにした。
オレの家は男爵家だが、そこまで裕福でもないためできるだけギリギリの生活をしようと試みてはいる。
ここの学費も馬鹿にはならないのだ。
次男坊ということもあり、爵位を継ぐことはない。
それならと、流行の演奏家にでもなろうとした次第だ。
練習もあるが、せっかくなのでオレ達は午後いっぱい、夕飯まで遊ぶことにした。
羽伸ばし。
窮屈な生活から一時開放された気分だった。
しかし、制服の着用義務。
外出をするときは、黒の制服に学院のマークの入ったトレンチコート。
一目見ただけで、学院のそれだとわかる。
しかし、一歩外へ出てしまえばそこは楽園だ。
走ってもシスターの目は光らないし、話しながら歩いても怒られることはないのだ。
「オレ、ケーキ食う。」
「お前、甘いものを食べたいがための外出か?」
「それもある。」
「お前には勝てネェな。」
オレ達はそれぞれの買い物にと別れた。
別行動するなら、一人で外出すればいいじゃないかとも思ったが、道中のことを考えるとやはり一人ではわびしい。
オレは、古道具屋で油を探した。
安い分燃費は悪いが、それでも新品の油を買うよりは数段お得なのだ。
他にもそれを狙う生徒がいるため、その古道具屋は学院の生徒が数名いた。
油は、主人が容器に入れてくれる手法なので、他の客が購入している間、オレは店内をうろついた。
珍しいペンや見たことのない道具などが多く、見るに飽きなかった。
中には物々しい甲冑や、今にも動きそうなビスクドールがあり、目を合わせずにその場を去ったりもした。
綺麗な宝石箱や、香水入れ、鏡なんかが丁寧に陳列されていた。
本も数多くあり、オレはその中の1冊を手に取った。
読み捨てられたそれとは違い、丁寧に扱われてきたのがわかる1冊だった。
綺麗な装丁に目を奪われ、この本も購入することにした。
どうせ、オレはこの後することもなく、あいつが戻ってくるまで待ち合わせの喫茶店で、時間をつぶさなければならなかった。
その間、彼がどこでなにをしていたかはオレは知らない。
珈琲を注文し、冷ましながら古本に目を通した。
さほど面白くない純文学だったが、暇つぶしには恰好だ。
値段も元値の10分の1ぐらいであったので、自室の本棚の肥やしになると思えばいい買い物だった。
なにより、装丁の赤の色が綺麗だった。
気が付けば約束の時間をとうにすぎていた。
しかし、夕飯までは余裕があったのでさほど気にも留めなかった。
「ごめん、遅くなった。」
「待ったよ。珈琲1杯で粘るのは大変なんだ。」
「悪かったって。もう1杯飲むか?おごるよ。」
「いいよ。もう、夕飯まで間もない。」
「そんな時間か。」
本当は彼を問いただすべきだった。
遅れた理由、どこで何をしていたか。
でも、オレはしなかった。
いやに、蒼い顔をしていた。
先ほどから何度も何もないところでつまづいている。
馬車を呼ぼうかというのだが、頑なに拒否された。
彼は頼りない足取りで、歩く。
「大丈夫か?」
「心配ない。」
それでも、その理由をオレは問わなかった。
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2007/04/25up
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