主よ、我をばとらえたまえ、さらば我が霊は解き放たれん。
我が刃をくだきたまえ、さらば我が仇に打ち勝つを得ん。

我が心は定かならず、吹く風の如く絶えず変る。
主よ御手もてひかせたまえ、さらば直き道踏み行くを得ん。

我が力は弱く乏し、暗きに彷徨い道に悩む。
あまつ風を送りたまえ、さらば愛の火は内に燃えん。

我が全ては主のものなり、主はわが喜び、また幸なり。
主よ、御霊を満たしたまえ、さらば永遠の安らぎを受けん。

                          【賛美歌333番/主よ我をば】








An Gel

第3楽章 Waltz











「ロイ・マスタング。貴様、兄さんに何をした!」


突然、後から豪快に蹴りを入れられたオレは、その場に倒れた。
さすが兄弟よく似ているが、ヴィオラ演奏者よこの暴挙を止めてくれてもいいだろう。


様子がおかしかったのはそうだが、大丈夫としかあいつは言わなかったし、練習も行くと言い張っていた。
しかし、オレは紳士的に寮まで送り届け、自室に戻ったのだ。
感謝されこそはすれ、蹴られることはないはずだ。


「なんのことだ。」
「今日は、お茶会はなかったはずだ。」
「なかったが、それがどうした。」
「2人で町に行ったんだろう?そこで何をしていたんだ?」
「町に行って買い物をした。それだけだ。」


何を言わんとしているのかわからなかった。


「それだけ?じゃあ、なんでに…


もう一人のアルフォンスが口を塞いだ。
ル・べべ・ミューズの弟は大暴れしているのにも関わらず、涼しい顔をして押さえ込んでいる。
手練だ。


「僕らの練習室まで、一緒に来ていただけますか?」
「これから、ル・べべ・ミューズと練習なのだが。」
「彼は今、部屋で寝ていますよ。」


付いていくしかなかった。


「一応、ご存知ですよね。お茶会の件は。」
「噂なら。」
「彼は今、ブルジョワの猫になっています。」
「兄さんが望んだわけじゃない。」
「本来ならば、止めるべきなのでしょうが、彼は止めることも望んではいません。」
「では、なぜ。」
「彼は恐れているのです。歌えなくなることを。」
「声変わり?」
「そうです。彼は人よりも成長が遅く、声変わりもまだです。」
「だからって、」
「歌えなくなった彼は、死んでしまうでしょう。」
「それと、これとどういう関係があるんだ?」
「彼は、この学院に貢献しなければならない。学費免除も彼の声が続くまでだ。」
「だから、身を売っているのか?」
「それは、正しくもあり、間違ってもいます。」
「つまりは、兄さんは歌えればいいんだよ。」
「その行為は、男性ホルモンを低下させると言われています。」
「だから、男に抱かれるというのか?」
「そうです。それが真実であるのか否かはわかりませんが、そう言って彼らは彼を抱いています。」
「その話は事実であるか否か。」
「それはあなたの信じる方で結構です。」
「真実はル・べべ・ミューズのみぞ知る。」


神は彼に何を与えたのか。
絶望だけか?
才能という絶望の闇か?
ボーイソプラノの運命は知れている。
声変わりの後は使い物にならない。
使えたとしても、合唱隊にでも入って細々と声を発するだけだ。
それが嫌なら、睾丸を落としてしまうしかない。
そうすれば、声を保つことができるらしいが、ボーイソプラノ自体が希少であるため、その真相は定かではない。
少年少女聖歌隊が関の山だ。


「オレに問いただせというのか。」


鍵盤を酷く叩いた。
指が痛む。
彼は講堂には現れなかった。
それがなによりの証拠に思えた。
今日、誰と会っていた?


次の日はいつもどおり、彼は白い制服を身に纏い、教会で歌った。
そして、オレ達は講堂で練習した。


「昨日は、身体の調子が悪くて、休んじまった。弟が伝言に行ったと思うが、会えたか?」
「会ったよ。」


なんとなく、目を合わせずらかった。
それが噂でないと感じた瞬間から、彼はオレの中で地に堕ちていた。


顔色が幾分優れないようだった。
練習の合間合間で彼はピアノにもたれたり、その場にしゃがみこんだりしていた。
しかし、オレは声をかけることもせず、そ知らぬ顔をした。


「おまえ、なんか今日変だぞ。」
「いつも通りだよ。」
「いや、おかしい。」
「おかしいのは、お前だ。なんで…」


顔に出ていたのだろうか。
つい、つい、口を滑らせてしまった。
オレにはなんの権限もないのに。


「あ、弟達に聞いたか。そうだよ。昨日は、前に抱かれそびれた公爵に会ってた。」


彼は、悪戯を咎められた子供のような顔をした。
青白い顔がより一層、深く沈んだ。


「あんたになら、話してもいいかも。でも、全部聞いてオレから逃げたくなっても逃がさないから。」


彼は立つことも辛そうだった。
今にも泣き出してしまいそうな声を必死に吐き出していた。
話すことが辛いのか、体調が優れないのか、どちらでもあり、どちらでもないようだった。
だが、オレは多分、全てを聞いたとしても逃げ出したりはしないと、不思議と思った。


「はじめてお茶会に出た時に、強姦されたんだよ。まぁ、何も知らないでのこのこと別室について行った俺が悪いんだけどさ。無知って恐いな。良い声で鳴く猫がいるって言う噂があっという間に流れてさ。なし崩しに今のような状態になったわけ。オレ、本当はただ歌えればとかったんだけど、周りはル・べべ・ミューズなんて言ってもてはやすし、そのお陰さまで理事長には寄付金が増えたって感謝までされて、特別待遇なんか受けて、引くに引けない状態でさ。はじめて会った時言ったろ?伴奏者がオレを手篭めにしようとしたって。あれはマジだぜ。何度襲われたことか。何回かはどうにか逃げたけど、駄目だね。逃げ切れるもんじゃない。お茶会の噂とか出してくると、逆らいきれないんだよ。俺としてはどうでもよかったけど、あっちの噂が立つと、寄付金おじゃんになるし。だから、頑張って我慢してきたんだよね。多分、弟が男性ホルモン云々の話してたと思うけど、あれデマだし。そういうこと言ってたのとかいたけど、結局この声のままでいたかったら、切っちゃえばいいわけだし。でも、そこまでして、この声のままでいようなんて思ってない…し。」


そこまで言って、彼は大きく息を吐いた。
オレ達は子供なのだ。
だから、何かの後ろ盾なくしては生きていけない。


「よく、我慢したな。」


オレは、こいつが一番欲しい言葉だと思う言葉を口にした。
彼は、泣きじゃくり、しがみついた。
抱いた肩が、あまりにも細くて、心が痛んだ。
体重を預けられているはずの両腕は、ちっとも人の重さを感じなかった。


「そんなに泣くと、明日声が出ないぞ。」


静かにうなづくが、泣き止まなかった。
彼が泣き止んだ時には9時をとうに過ぎ、寝息を立て始めたときだった。
呆れ半分、オレはこいつをかかえて寮に戻った。
部屋は知っている。
最上階の階段に一番近い部屋だ。
意外に軽いル・べべ・ミューズを抱えてそこへ向かった。


部屋を開けると生活感というものがなかった。
どれも似たようなものなのだが、それでも多かれ少なかれ荷物というものがある。


中等教育は基本的に、1、2年が10人部屋、3年が6人部屋で生活する。
高等教育に上がってもそれは同じで、1、2年が4人部屋、3年に上がると2人部屋になる。
バカロレア進学者などを考慮してだ。


閑話休題。
オレの部屋を例としてあげるなら、タオルや、寝具はほったらかしだし、勉強道具も机の上に散在している。
お気に入りの女優のポストカードが貼ってあったりするのが普通だ。
いや、オレのことではなかった。これは同居人の話だ。
オレの居住スペースはいたって片付いている!
無造作に置かれた楽譜だけがここが彼の部屋だと示している唯一のものだった。


静かにベッドに寝かせてやると、オレはタオルを探した。
あのままでは次の日は、声どころか顔すらも大変な状態になる。
さすが個室なだけあって、シャワー室も洗面所も完備だ。
オレはタオルを濡らして、顔を拭いてやった。
ちっとも起きやしない。
オレは、目元にタオルを乗せたまま、部屋を出た。


その晩は、いまいち寝付けなかった。
高ぶるものを抑えきれず、寂しくトイレに向かった。


朝は最悪。
見事な晴天が疎ましかった。
ル・べべ・ミューズはいつも通り、甘美な音を奏でていた。


「その清々しい顔がむかつくよ。」
「だろ?オレも鏡見て思った。」
「お前は、懺悔をして楽になったかもしれないが聞かされたオレは最悪だ。」
「あはは。」
「笑い事じゃない。今日ほど神父やシスターを偉大に感じた日はないよ。」
「まさか、オレで一発抜いたとか?それで落ち込んでたりして。」
「馬鹿言え、あれだけのことを聞かされて平常心を保っていられるほうがおかしい。」


正にその通りです。
抜きました。
ああ、抜きましたさ。
ル・べべ・ミューズの艶やかな声で啼く、お前を想像したさ。
若気のいたりなので、許してください。


それでも、昨日より幾分か顔色のよくなった彼を見て安心した。
嫌味の一つでも聞かないと、彼と練習している気がしないのだ。


「でも、良かった。ここには来ないと思った。」
「それも考えたが、乗りかかった船だ。オレのバカロレア進学まで付き合ってもらうぞ。」


オレはどこかおかしいのだろうか。
昨日まではなんともなかったはずだ。
小生意気な糞餓鬼をおかずにしたのが不味かったのか…、どうも扱いづらい。
それでも、練習にはしっかり身を入れなくては、蹴りが飛んでくる。


「なあ、あんたはオレを抱きたいと思うか。」
「は?お前みたいな糞餓鬼に欲情するのは馬鹿だけだよ。」


オレは嘘を吐いた。
昨日部屋に送り届けた時点で、オレの理性は限界だった。
淫猥な鳴き声で啼くこいつを想像するだけで、おかしくなりそうだった。
でも、今の位置に居続けるためには、この衝動は押さえ込まなければならない。


定期演奏会、オレは異例の曲数を抱えていた。
ソロは1曲だが、それ以外にル・べべ・ミューズの伴奏という大役を担っている。
噂が噂を呼んだか、オレの演奏はちょっとした注目を浴びていた。
ル・べべ・ミューズが側近に選んだ唯一の演奏者。
更にゴシックではオレとル・べべ・ミューズの肉体関係まで報道されていた。
馬鹿な話があるか。
眉唾報道と、オレは無視を決め込んでいた。


彼は舞台の上でより一層輝いた。
彼と合わせるほど、より高みに昇ることができた。


しかし、オレは考えていた。
彼との関係はこのままでいいのだろうかと。
もっと深いところで彼とつながる事ができれば、もっと高みへ昇れるのではないかと。
彼もそれを望んでいる気がした。
しかし、オレはその勇気がなかった。
その行為は、オレ達の関係を崩すものだと知っていた。


今までの伴奏者もそうだったのだろうか。
だから、彼を求めたのだろうか。
しかし、彼は全てを拒んだ。
それがル・べべ・ミューズの寵愛を受けるに等しくないかのごとく。


その後のお茶会に、オレは見事招待された。


しかし、前回のそれとは違った。


「君は、大変優秀な生徒のようだね。そろそろ、本腰を入れて、バカロレアに向けて練習しなければならないんじゃないかな?」
「ソロとしても認められているようだが、いつまでも伴奏に落ち着いている場合じゃないだろ?」
「練習が大変ではないのかね?」


何が言いたいんだ?
ル・べべ・ミューズはそれを黙って聞いている。
オレはどう返答したらいいのかがわからず、ただうなづくばかりだった。


「さて、では私たちは向こうへ行こうか。」


ル・べべ・ミューズの手を取って一人の男が立ち上がる。
彼はこちらを一瞥し、何か言いたげに唇を噛み締めた。
続けて立ち上がろうとするオレを、別の男が制する。


「君は無粋な事をする気かね?」


オレは何もいえなかった。
ただ、彼が扉の外に出て行くのを見ていただけだった。


「君は彼と恋人なのかな?」
「いいえ。違います。ただの伴奏者です。」
「では、君には何の権限もない。」


高らかに笑うこいつらを殴ってやりたかった。
こいつらはその薄汚い手でル・べべ・ミューズを犯すと思うだけで、身震いした。
その薄汚いひげ面であいつの唇を汚すのか?
その薄汚い手であいつの肢体を汚すのか?
その薄汚い眼であいつの心を汚すのか?
殺してやりたい衝動に駆られた。


彼らは至極当然のように、彼の話をした。
淫猥なル・べべ・ミューズ。
今すぐにでも、耳を切り落としてしまいたかった。
今すぐにでも、その下品な口をどうにかしてやりたかった。


「坊や、私のところに来て、話をしないかい?」


突然、後ろから話しかけられる。
そういって、黒髪のご婦人はオレを招いた。
彼女は他のそれとは違い、簡素な黒のドレスを身に纏っていた。


「ああいう連中は好きではなくってね。君をお茶会に指名したうちの一人、イズミ・カーティスだ。」
「お初にお目にかかります。カーティス伯爵夫人。」


伯爵夫人はとても大胆に、そして艶やかに笑った。
色香というものはこういうものなのだろうか。


「君の演奏はいいね。艶やかだ。ル・べべ・ミューズの影響かい?」
「はい。」
「君がああいう場に出るのは、専攻科の新人演奏会以来かな?」
「はい。」
「あの頃は、まだ青臭い演奏だった。腕は確かなのにもったいないと、伯爵と話した事がある。」
「ありがとうございます。」
「君の援助を申し出たいんだが、いいだろうか?それとももう、決まっているのかい?」
「いいえ、ありがとうございます。」
「普通に話してもらっても構わないよ。今の瞬間からマスタング男爵家の地位は忘れてもらっても構わない。」
「マスタングをご存知で?」
「ああ、君の母君とは旧知の仲でね。」
「そうでしたか。」
「でも、確かに君に才能を見たから、援助を申し出たんだよ。それを忘れないでくれ。」


オレは浮かれていた。
彼のことを忘れたわけではなかったが、彼が戻り、視線だけでオレを探しまた連れられていった事には気がつかなかった。


カーティス伯爵婦人は面白い方だった。
サロンの話で懐かしい名前を聞いたりだとか、おおいに盛り上がった。


「カーティス伯爵家は大変な資産持ちだと聞く。」
「そうらしいな。それに、面白い方だ。」
「あら、ジャン様はハボック公爵家よ。」
「「いや、のろけは聞いていない。」」


あれから、2人は文通しているらしい。
かいがいしく毎日だと。
リザも、ホークアイ子爵家のご令嬢だったりするので、お似合いの2人と言える。


そして、背中に覚えのある蹴りを感じて、オレはまた床に倒れこんだ。


「また、お前かー!!!」
「なんのために話したと思ってるんだ!」
「知るか!」
「兄サンを助ける気がないなら、今すぐ伴奏を降りろ。いまや、伴奏をする意味も無いだろう!」
「ある。オレと、あいつの音の相性はいいんだ。」


もう、オレは引き下がれないところまで来ていた。


オレ達は話し合う必要があったし、彼がオレに何をして欲しいかをはっきりと聞く必要があった。
あの視線の意味とか…。


「どう、したいか?そうだな。」


講堂から寮に向かう途中、オレは聞いた。
もう、聞かずにいる必要がなかったからだ。


「オレ、あんただけのために歌いたい。」


ただ真っ直ぐこちらを見据えて、ル・べべ・ミューズは言った。
その顔は、青白く不健康そのものだったが、弧を描く瞳はいつものそれより酷く淫猥だった。


「オレのためだけに奏でて欲しい。」


オレは思いも寄らない返答に驚いていた。
助けて欲しいだとか、そういう類の返答を予想していた。


「じゃあ、このまま2人で駆け落ちでもするか?」
「冗談だよ。助けてくれなんて言うとでも思ったか?」
「思った。」
「じゃあ、何であの日、助けてくれなかったんだ?じゃあ、何でオレを見てくれなかったんだ?なんで、あんたは楽しそうに笑っていたんだ?」
「じゃあ、言えばよかったんだ。」
「違うね。あんたは知ってた。でも、助けてくれなかった!」
「幻滅したか。」
「いや、感謝した。」
「感謝?」
「そうだよ。あんたがあそこでオレを行かせなかったら、オレもあんたもこの学院にはいられなくなっていた。軽率な行動を起こさないでいてくれたことに、あの後感謝したよ。」
「何か、言われたのか?」
「オレとお前の関係を問いただされた。」
「恋人だとか?」
「ただの伴奏者だと応えた。」
「まぁ、実際そうだけどな。」
「ははは。誰も信じちゃくれなかったけどね。」
「だろうな。オレのすごい剣幕で問われた。」
「オレさ、もう、男じゃなくなったんだよ。」


何の前触れもない告白に、オレは聞く耳を疑った。


「オレ、町に行ったあの日、切られちまったんだ。おかしだろ?オレは誰のものでもないのに、誰かのものになるならって、ありえないだろ?オレは望んじゃいなかった。」
「どうしてほしい。」
「死にたい。女を抱くことすら、子供を作ることすらできないんだ。」
「歌えるのに?」
「永遠なんてないんだよ。なあ、ロイ。オレは間違ったのか?どうすればよかったんだ?町へなんて行かなければ良かったのか?しかたがないじゃん。呼ばれたら、行くしかないじゃん。だって、そうだろ?オレは捧げられた生贄なんだからさ。」
「おまえは、どうしたい?」
「どうしたいんだろうか。このままオレは成長もせずに、老いていくだけだ。気持ちが悪い。」
「オレが側にいてやるだけじゃ駄目か?」
「馬鹿言え、おまえはいずれ好きな女ができて結婚する。オレを忘れてな。」
「信じられないなら、二人で死ねばいい。」
「悲しむよ。」
「構わないさ。ル・べべ・ミューズを永遠に手に入れられる。」
「あはは、違いない。」
「でも、今を生きよう。それからでも遅くはない。」
「ああ、あんたがバカロレアに行ってしまうまでに結論出せばいいんだ。」


本気で生きる希望を失った目だ。
本当にもう、彼は男性ではないのか?
あの日に、彼は…。
練習に身が入らなかった。


「夢?」
「そうだよ。お前、卒業したら何になりたかったんだ?」
「教会で合唱団の指導員がやりたかったな。」
「なんで、過去形なんだよ。」
「あはは、そうだな。」


彼の音は日を増して神々しくなっていった。
意識が神に近いところに行ってしまったからだろうか。
そして、彼は頻繁に熱を出し、寝込むようになった。
練習に参加しても、焦点の合わない瞳で歌うだけだ。
オレは一人練習する日々が続いた。


彼が2階で白い制服を着て歌う回数が減っていった。
初めて定期演奏会の出演者に彼の名前が出なかった。
体調を考慮してなのか、何なのかはわからなかった。
信者たちはル・べべ・ミューズへの貢物をオレに渡していく。


オレは、1日に2度彼の部屋を訪れた。
貢物を持っていくためと、感覚だけでもと、オレの伴奏と彼の音を合わせるためだ。
基本的な彼の介護は弟がやってはいたが、それでも、食事を手伝ったりした。
彼はベッドの上でか細い声でずっと歌っている。
歌っているか眠っているかだ。


食べても戻す日々が続き、教師面々も異常事態と彼を入院させた。
簡単には外出できないこの学院。
彼の容態は気になってはいたが、弟とすら会えなく、状態を把握できていなかった。


「兄は、長くないそうです。」


いつものように彼は、オレの背中を蹴り飛ばした。


「な、…。」
「あの後、何の処置もないまま兄は普通に過ごしていた。そこから身体が腐っていっているそうです。ホルモンバランスも崩れて今、兄の意識はほとんどありません。」


我が耳を疑った。
ル・べべ・ミューズが死ぬ?
永遠を手に入れる?馬鹿な。
神よ、なぜ、彼にそんな苦痛を強いるんです。
彼は苦しんできたはずです。
どうして…。


「あなたに会いたがっています。」


オレは外出届を半ば無理やり強奪し、彼を尋ねた。
病室は整然としていて、付き添いに前調律師のピナコ・ロックベルがいた。
彼女はオレを確認すると、会釈して部屋を後にした。


「ロイ?」
「ル・べべ・ミューズご機嫌いかがかな?」
「おれ、あんたに謝りたいことがある。」
「なんだい?」


オレは、努めて平静を装った。


「オレ、あんたと歌えなくなるのが恐くて、あの日、拒否できなかったんだ。」


こけた頬、乾いた唇、ほつれた髪の毛。
オレの知っているル・べべ・ミューズはそこにいなかった。
琥珀色の瞳は鈍く淀んでいた。
だれだ?これは。


「あの日、オレ、怖くなってたんだ。この声がなくなったら、オレはル・べべ・ミューズじゃなくなって、あんたと歌えなくなるって。だから、拒否しきれなかった。」


オレは黙って懺悔を聞いた。


「オレ、本当は嫌だったんだ。歌えなくなることが。だから、ずっと、考えてた。でも、あんたと出会って、あんたと歌って、オレは歌えなくなることの恐ろしさを知った。」


恐ろしかったのはオレだ。
手放せなかったのはオレだ。
オレが追い詰めた。


「オレが、…追い詰めたのか?あの時、オレはお前から離れていけばよかったのか?」
「違う。オレはこうなりたかったんだ。」
「違うだろ?お前はこんな結末望んじゃいなかった。」
「そうだよ。でも、これでよかったと思ってる。」
「よかった?ふざけるな。」
「そうか?オレはル・べべ・ミューズのまま死ねるんだぞ?これ以上の栄誉はない。」
「オレはどうなるんだよ。」
「どうにかなるのか?お前はもう、ソロとしての道を歩んでるじゃないか?」


笑った顔はル・べべ・ミューズだった。
ああ、愛おしい。
どうして、彼を愛そうとしなかったのだろうか。
彼はそれを求めていたのに。
どうして、彼を愛することを認めなかったのか。
彼は愛されることを望んでいたのに。
もう、遅すぎる。
自責の念がオレを支配する。
気づけなかった。
自分のことしか見ることができなかった。
悔しかった。
遅いんだ。今更だ。
ああ、なにもかも遅すぎる。


「どうして泣くんだよ。」
「オレは、お前を追い詰めたんだ。」
「違うって。」
「そうなんだよ。オレはお前に言えなかったんだ。」
「いいよ。知ってる。だから、あんたはオレを大事にしてくれた。」
「違う、逃げていたんだ。自分の気持ちから、お前から。」
「うん。」
「オレがお前に告げていれば変ったか?」
「どうだろうか。」
「いや、少なくとも、お前は不安になったりしなかった。」
「さてね。」


笑顔を絶やさず、オレを見つめた。
彼のその瞳は優しくオレを包む。
そして、ル・べべ・ミューズは歌う。
オレを慰めるために。


「オレはお前に何ができる?」
「うーん、そうだな。もう一度あんたと歌いたい。」


オレはこいつを抱えて学院に戻った。
以前抱えたときよりも、軽くなっていた。
それはもう、人の重さではなかった。
彼の体温だけが、彼が人だということを証明しているだけだった。
オレ達はいつもの講堂で、歌うことを決めた。


オレ達は歌った。
俺たちの関係はただのボーイソプラノとその伴奏者だ。
それ以上でもそれ以下でもない。
でもそれが、オレにとっては最高の栄光であり名誉なのだ。


彼が病院を抜け出したことで、学院は騒然となっていたが、お構い無しだった。
彼は病院や寮の自室には戻らず、オレと共にオレの練習室で1夜を過ごした。
眠ることを恐れた彼は、俺と共に夜が明けるまで歌い続けた。
彼は白い制服を着ずとも、白い病院着を着ている。
最後に明日教会で歌うという、彼の我侭を聞いた。
7時前にオレ達は2階へ上がった。
彼一人では、もう階段を上ることすら叶わなかった。
代行人が準備をしていたが、彼の顔を見るなり、席を譲った。
彼は小さくありがとうと言うと、代行人は涙を流していた。
これが最後だということを知っているのだろうか。
もう、彼の事は学院の誰もが知っていた。


7時の鐘がなる。
鳴り止むと彼は、天の音を奏で出した。
下にいる全ての生徒が2階を見上げた。
彼は歌った。
1曲と言わず、何曲も。
どれくらいの間、休むことなく歌っただろうか。
最後は、音になっていなかった。
それを聞く生徒の中にはすすり泣くものもいた。
それでも歌い続けるそれを静かに制した。
オレを見上げる彼は、とても満足そうだった。
そして、彼を抱えて教会の外に出た。
教会では多分、騒然としている生徒たちを教師達が抑えているのだろう。
教会の中から彼を呼ぶ声が聞こえる。


「ル・べべ・ミューズ満足したかい?」
「ああ。歌いすぎだな。」
「そうだな。」
「すこし、眠っていいか。疲れた。」
「いいよ。病院に戻るかい?」
「講堂でいい。」
「わかった。」


オレの返事を聞いたかそうではないのか、あっという間に寝息を立てた。


「待てよ!」


アルフォンス・エルリックがオレ達を制する。


「すまないな。」
「いいんだ。それが兄さんの意思だったから。」
「そうか。」
「ありがとう。」
「うん。」
「兄さんは、…
「言わなくてもいいよ。わかってる。」


誰も、オレ達を止めはしなかった。
ル・べべ・ミューズの最後の我侭だから。


誰もが彼を愛した。
彼の音を愛した。
だから、彼のそれを認めたのだ。
だから、悲しんだのだ。
だから、慈しむのだ。


「ロィ」
「なんだい?」
「オレ、さ、あんたが伴奏で本当に良かったと思ってるんだ。」
「うん。」
「もともと歌うことが好きだったけど、もっと好きになった。」
「うん。」
「ありがと。ロイ。」
「うん。」


そして、静に口ずさみだした。
その声が講堂に響き渡る。


「エドワード、そのまま聞いておくれ。」


すこしだけ音がずれたのを感じた。
だが、すぐに元に戻る。


「オレは、お前と出会って、色々なものを手に入れることができた。オレはとてもお前に感謝している。ありがとう。オレは君に…ル・べべ・ミューズに永遠の僕となることを誓うよ。」


真珠を纏ったその声は、講堂に響くことなく、沈んだ。
それでも、彼の声は神に愛されていた。


彼は病院に戻ることなく、寮で息を引き取った。
講堂で歌い終わった後、彼は意識を取り戻すことなく天へと昇った。
誰もが泣いていた。
彼はル・べべ・ミューズとして、永遠を手に入れた。




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2007/04/28up

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