可愛い生物が1匹…。
金猫とは本当にすばらしい名前を付けたものだ。
しかし、この名前はまだ使っていない。
願わくば使われないことを祈るのみだ。
枕というオプションは未来永劫、私の中で最高位の可愛いを付属するアイテムとして君臨するだろう。
可愛いんです。本当に。
人と触れ合う久々の感覚、それも知った相手となんて初めてで、ましてや初めてなんて初めてで、いや?いたか?
男だとか、女だとか、そういう感覚は当の昔になくなっていた。
常套句で、言い訳じみているが、君だから好きなんだなどといったら、バカヤロウとひとこと返ってきた。
上気した頬、潤んだ瞳、軽く開けられた唇。どれをとっても、可愛かった。
そういったら、今度はバカと細い声で返ってきた。
私はなんと幸せか。
自分が恋した相手を抱くことができるなんて、この世の災厄全てが降りかかってきても、本望だった。
こんな幸せを受ける権利も何もないはずなのに…。
現金だなと思いつつ、後ろ髪を引かれつつ、幸せを満喫した。
疲れ果てて眠る彼は、眉間にしわを寄せている。
申し訳ないと思いつつ、可愛いと思いつつ、その眉間に口付けをした。
ああ、何たる背徳感、何たる欺瞞。
幸せなはずなのに、また夢を見た。
暗い暗い森の中。
いつもここだ。
聳え立つ木々が人の顔になり、私を責め立てる。
「シアワセニナッテイイトオモッテイルノカ?」
「ワタシハモットイキタカッタ。」
「ワタシハシアワセニナルコトガデキタカモシレナイノニ!」
わたしはただ、耳を塞いでうずくまっていることしかできない。
助けてくれとも言えない。自分の咎だから…。
それでも、月を臨みたかった。
この森を出ることができれば、明るい月に出会える気がした。
でも、足は蔓に囚われ身動きが取れない。
声にならない嗚咽に目が覚めた。
まだ夜は明けていない。
目の前には月のように輝く小さな頭。
規則正しく呼吸をしている。
闇の中キラキラひかる金色を一筋すくい、口付けた。
君を守らなければ…
それが唯一の私の光で救いだ。
君を守らなければ…
この森へ引きずり込んだ私からの贖罪だ。
君を守らなければ…
君を手放さないために…
人工的な光がさす。
本物の窓はこの部屋にはない。
部屋に光があふれる。
いつか、君と本物の朝日を浴びることができたらどんなに幸福か。
ああ、自分がどんどん貪欲になってゆく…
君さえいればいい。
他には何も望まない。
その日、1日中彼のことを考えてすごした。
仕事にならないなと自嘲した。
彼は隣の部屋でのた打ち回っているのだろうと思うと、申し訳なく思った。
この部屋から出ることはほとんどといっていいほどない。
運動不足だと感じれば、隣の部屋にマシンがある。
廊下にすら出ないことがほとんどだ。
それでも、彼と食事を取るようになってからは、少なくても1度は出るようになった。
窓の外には重々しい柵が見えるけれどそれでも、れっきとした外があった。
先日の外出は、本当に久々の外だった。
空港から、ここまで相当な距離の中、5年ぶりに見た外の風景はがらりと変わっていた。
あまり大きい町ではなかったと記憶していたが、高層ビルが立ち並び、町から街へと変わっていた。
このビルのほとんどが自分の会社なのだと思うと、なぜか情けなくなった。
汚いこともやってきた。それが仕事なのだと割り切ってきたから。
でも、それが本当に正しかったのかと、少しだけ疑問を感じた。
夕食は定時。
彼は食欲旺盛で、見ているだけで満腹になる。
それが今日は進んでいないようで、まだ身体の調子が悪いのかと按じてみたが、大丈夫と言う彼の言葉は頼りなかった。
夕食後は基本的に事務処理に当てるようにしている。
12時前には手に取った仕事を終わらせていたいからだ。
彼は計ったように12時ジャストにノックをする。
一秒も狂わずにだ。
しかし、今日に限ってまだジャストではない。
すると執事が甘いチョコレートの匂いと共に顔をのぞかせた。
彼が優しい顔をして戸惑った猫を見るのを見て、彼をここに招いてよかったと思った。
私だけでなく、この屋敷の全ての人間が彼のおかげで優しい顔をしている。
暖かな蜜色の月。
闇の中でも、どこでも、彼さえいれば恐くない。
しかし、彼の才能を考えた。
見事なまでの功績は敬服に値するし、私が知らない功績も数多くあるはずだ。
ここにいたのでは才能をつぶしてしまう…彼は私のエゴの為にここにいる。
天地が崩壊する。
何ということをしてしまったのだろうか…、私は、彼を…。
恐くて仕方が無くなった。
震える手のせいで最後の1枚のサインが歪んでいた。
本当に恐ろしいことをした。
震える手をごまかすために、席を立った。
彼の持つお盆の中で氷がキラキラしていた。
彼は私を恨んでくれるだろうか…いっそ…
それでも、私は彼を愛していると、惨酷にも気づいてしまった。
黒猫の用心棒
教訓4〜日向ぼっこは好きです。でも、下手をすると背中で目玉焼きが作れそうな気がしてきます。〜
「今日は、オレ、この家を探検するから。」
そう意気込んでいた。
「警備装置とか、詳しく見ておきたいしさ。」
笑った顔が朝日のようにまぶしかった。
黒くよどんだものが体中から溢れかえってくるような、苦しさを感じた。
「っていうのは、建前で、ほとんど探究心。すげーんだもん。この家。」
キラキラと目を輝かせる。
その姿は15歳の少年なんだと自覚した。
まだ、15歳だ。
この先いくらでも、なんにでも成れる。
こんなところで、彼を朽ちさせてはいけない。
愛しているなら、彼を無事この家から解放しなければならない。
「まぁ、この家で何かあるとは思えねぇけどな。」
朝食を食べ終わり、自室に引き返している私たち。
彼は踊るように駆けていく。
私は自室の前でドアノブを握った手をじっと見つめて、後悔していた。
次にあった彼は蜘蛛の巣や、埃を全身にまとっていた。
綺麗な金色の髪は埃を纏った蜘蛛の巣だらけ。
鼻の頭も黒く汚れている。
何より、白かったはずのシャツは女中たちが目を丸くして驚きそうなほど汚れている。
「配線見ようと思って屋根裏部屋に上がったら、いいもの見つけた。」
思わず噴出す私をみて彼は、ふくれっ面になる。
「何だよ、見せてやらねぇぞ。」
手には小さな宝箱。
見覚えがある。
それは母のだ。
懐かしい。
そうか、屋根裏部屋に隠していたのか。
幸せな思い出が蘇る。
「もうすぐ、夕餉だ。シャワーを浴びておいで。食べたら、思い出話に付き合ってもらおうか。」
宝箱を受け取り、顔を黒くした彼をバスルームへ追い立てる。
彼の足跡がくっきりと残っているの確認して、思わずまた笑ってしまった。
小さな足跡に自分の足を合わせてみる。
そんな行為をしている自分がおかしかった。
愛おしい。
愛おしかった。
彼の全てが。
何から、彼に話そうか。
ホコリまみれの宝箱に息を吹きかける。
多少のホコリは空気中に舞い上がり、のどを刺激したが、それでもしつこく残るホコリに10年の歳月を感じさせた。
それを丁寧に指で拭くと、真っ黒になった手が彼とお揃いとばかりに誇らしげだった。
私の部屋と彼の部屋はバスルームで繋がっていると言っても過言ではない。
それぞれシャワールームは個別に付いてはいる。
普段はこちらを使うことが多いし、湯を張るという行為もなかなか面倒なもので、作っておきながら使用頻度は極めて低い。
外へ出ることが困難になったため、健康ランドさながら、トレーニングルームや広めのバスルームを作った。
有閑といえばそれまでだが、私にとってのささやかな自由なのである。
女中に頼んで新しい着替えを、そして、この部屋までの見事な足跡を掃除してくれるように頼んだ。
「なんだい、ご主人これは。」
怪訝そうな顔をして足跡を追いかけながら女中頭sが入ってくる。
基本的にこの部屋に出入りするのは女中頭の彼女と執事のみだ。
「すみません。猫が屋根裏部屋で遊んできたらしいんですよ。」
「そうか。あのちっちゃいBGはここの暮らしを気に入ってくれているようだね。」
「そうだといいんですが。」
彼女は私が赤ん坊の頃からの付き合いで、頭が上がらない。
当時彼女は、女中見習いとして孤児院からやってきたと聞いている。
私の遊び相手にするつもりだったらしい。
いや、遊んでいただいた記憶はある。それが世間一般にそう呼ぶとは思えないが…
憤慨するかと思いきや、腹を抱えて笑っている。
彼の幸せな空気は、そういうものを持ってはこないのかと私もつられて笑った。
着替えを受け取りバスルームに向かう。
中からはしゃぐ声と水しぶきが聞こえる。
私は曇ったガラス戸に向かって大きく声を出した。
しかし、反応は無い。
仕方ないと、扉を開けると全身びしょぬれ。
どうやら、彼がバスタブへダイブしたところだったらしい。
呆気に取られる彼の顔が可愛くて、怒る気分にもなれずに、ただ笑ってしまった。
「ご、ご一緒にいかが?」
ばつの悪そうな顔をしながら、泡にまみれた彼が誘う。
私も、悪ふざけとばかりにそのまま飛び込んだ。
頭の上から見事に泡をかぶったお互いを見合わせながら、2人で笑いあった。
「ばっか、なにやってんだよ。服のまま。」
「たまには、こういうのも良いではないか。」
泡にまみれたお互いをシャワーで流した。
彼の傷だらけの身体を明るいところで始めて見たため息を呑んだ。
「これ、ほとんど親父が爆破されたときの傷だよ。」
指を指しながら、照れくさそうに言う。
「でも、こっちのは弟とブランコを取り合いしてた時にできた傷。弟のも相当酷いぜ。」
誇らしげに指を指す。
そのあと、夕食を食べると言ったのに現れない私たちを心配して来た執事に、こっぴどくしかられた。
こんな風にしかられるのは、初めてではないか?
彼が来てからこの屋敷は本当に、幸福に満ち溢れている。
「今日は、もう仕事はいいのかよ。」
本日もまた、枕を抱えている。
薄い青地に端に赤色でエドワードと刺繍が施されている枕。
長い間使っているのか、部分的に色があせている。
誰かの贈り物であろうか。
私は、お盆を持つ彼の頭をポンっとなでると、怪訝そうな顔をされた。
「たまには、こういう日があってもいい。」
ただ今の時刻は9時過ぎ。
いつもなら、背伸びをしながらもうひと頑張りと机に向かい直す時間だ。
早々とベッドの上でスタンバイ。
いつものように彼はチョコレート、私はブランデー、しかし本日は宝箱のお客様。
敬意を表さなければならない。
サイドテーブルの上に静に置く。
「さて、何から話そうか。」
彼を見ると、目を輝かせている。
「なあ、その前に、これ鍵かかってるみたいだけど、鍵あるの?」
この宝箱のの中身の方が私の過去より大事か!
まあ、彼の探究心からすればそんなものか。
「鍵は、おいおいわかるさ。」
「へぇ。」
さて、本当に何から話そうか。
初めて人に話す、わたしの思い出。
この宝箱の思い出だけはきれいなもので作られている。
「この宝箱は母が大切にしていたものなんだよ。」
思い出を紐解くという行為。
どこかむず痒く、恥ずかしい気持ちとうれしい気持ちでいっぱいになる。
きれいになった宝箱が、サイドテーブルの上で開けられる時を今か今かと待っているようだった。
由緒正しい貴族の家として栄えてきたこのマスタング家は、それでも時代のあおりを受けて衰退していった。
祖父は大変な経営手腕を持っていて、わずかな貯えを経営投資し、見事成功した。
祖父母には一人息子しか居らず、大層溺愛したそうだ。
祖父は面白い、というか偏屈な人で、この家をこんな風にしてしまったのだ。
父は私とは違い、外交的で先日会った国王とも親交が深く、貿易関係の方面へ手を広げた。
その頃、母と出会ったんだ。
母は小国の貴族出身で、25も歳の離れた父に見初められて結婚した。
誰もがうらやむ幸せな結婚だったらしい。
でも、母は身体が弱く、私を生んだことでいっそう身体を悪くして、ほぼ毎日臥せっていたよ。
こちらをじっと見るのではなく、相槌を打つのと同じくらい自然な様子でこちらを見る。
母の部屋に出入りをすると、女中に叱られてね。
今の女中頭だよ。彼女は私の姉のような存在でね。未だに頭が上がらない。
それでも母は私が部屋に行くと、いつも話をしてくれてね。
母の国の物語。キレイなもの、恐いもの、不思議なもの。その話を聴くのが大好きだったんだよ。
頭をなでられてね。
母はとてもきれいな栗色の髪で、少しだけ巻かれた髪をひとつにまとめて肩にかけていた。
触ってみたかったけれど、触ることができなかった。
母は私の頭をなでながら、『お父様に似て月夜のなだらかな髪でうらやましい』といつも言っていた。
その頃、父君は家になかなか帰ることができないほど仕事が忙しくてね。
母は寂しい思いをしていたのだと思う。
瞳に影が映る。
しかし、エドワード、ちっとも寂しい、悲しい話ではないのだよ。
この頃の私はとても幸福の中にいた。
木陰にできる小さな陽だまりを一生懸命に追いながら、時折吹く、緑を纏った風に心を躍らせていたんだ。
話が少しそれてしまったね。
この宝箱は母の国の物語に出てくるんだ。
フェアリーや、ドワーフ、コロボックル、そういうものが母の国にはたくさんいるそうだ。
自然が豊で、作物は常に幸せの匂いを纏っている。
そういう国で母は育ったと言っていた。
大きな深い森の物語。
深い深い真っ暗な森の中は朝がない。
真っ暗な森での唯一の光は、フェアリーの羽と水密灯という光を発する植物と、月だけだ。
月を見ることのできる唯一の場所は湖で、そこには水の女神がいて、その女神はとても探し物が得意なんだ。
でも、女神はあるものを持っていないと探してくれないんだ。
それは探す人によって違うもので、母は、この宝箱に入っているものだと言っていた。
私は、彼を見ずに宝箱を膝に乗せた。
「この宝箱の鍵はね。実はないんだよ。」
驚いた顔をしているのかなと、宝箱をなでながら思った。
「母が一緒に持っていってしまったんだ。」
彼をはじめて見る。
彼は私を見てはいなかった。
ただじっと、飲み干したチョコレートの入っていたマグカップを見ていた。
「だから、私は屋根裏にコレを隠したんだ。」
彼は何も言わなかったし、動かなかった。
「中身は、私も知らない。」
少しの沈黙。
中身への興味は当の昔に捨てた。
見てはいけない気がしたのだ。
母の大切な、大切な思い出が詰まっているから。
「あ、あのさ。」
こちらを向かないその視線は、マグカップに注がれたままだ。
マグカップを持つその手はぎゅっと握られている。
「どうした?」
「そ、その中身、実はさ、…」
一拍置くと、ゆっくりと口を開く、でも、音は出てこない。
「…、見ちまったんだ。」
驚きはない。
本当にカンタンなつくりの宝箱だ。
鍵ひとつで簡単に開けられる代物。
「そうか。」
「ごめん、…ごめんなさい。」
振り向いたその顔は、今にも大粒の涙を流しそうであった。
「いいよ。」
私は頭をなでた。
母が私の頭をなでる時にこんな思いでなでていたのかと思うと、愛されていたと感じた。
「な、中身、のこと、聞かないの?」
私は少し悩む。
知りたい気持ちもないことはない。
「君は、私が知るべきだと考えるかい?」
ひどい質問だ。彼を攻め立てるよりも、彼を傷つけている。
「あんたが、自分が嫌いで、嫌いで、嫌いで、誰からも愛されてはいけない存在だと思うなら…」
そこまで一気にまくし立てると、一息置いた。
「あんたが、何に苦しんでるとか、オレ、ぜんぜん知らないけど、あんたが苦しんでるのは知ってる。」
私は言葉が返せないままただ、彼の言葉を聴いている。
「あんたが、何を我慢してるのとか、オレ、ぜんぜん知らないけど、あんたが我慢してるのは知ってる。」
私はただただ、彼をまっすぐ見て、その言葉を聴くばかり。
「オレ、あんたを守るんだ。あんたが恐れてるものとかから、オレ、守るから。」
私の膝の上に置いた宝箱を奪って目にも留まらぬ速さで鍵を解いた。
「あんたは、見ないと駄目だ。」
そう言うと、再び私の膝の上に戻した。
息を呑んで、ゆっくりと開ける。
本当は恐くて、その手が震える。
開けると、1枚の写真が目に留まった。
父と母と、多分生まれたばかりの私だ。
母も父も笑っている。
写真を手に取る。
にじんだペンの痕を見つけ裏返す。
“私は幸せを探していた。でも、彼とこの子に出会って私は幸せと巡り合えた。”
やさしい、細い文字でそう書いてあった。
きっと母の文字なのだろう。
胸が熱くなった。
思わず、手で顔を覆う。
私はなんと恐ろしいことをしてきたのだろうか。
人はこうして愛されて生まれてくる。
私はどれだけの愛された人々を殺してきたのだろうか。
私は君に守られる資格がない。
私の命をが全ての償いに使えるなら、今すぐにでも絶ってしまいたい。
幸せを纏ってきて生まれたはずの私は、誰の心にも幸せを与えられず、ただただ不幸に貶めるだけだ。
まだ、償えない。
どれだけ私を他人が称えようと、感謝しようと、消えることはないのだ。
「ご、ご主人?」
「私は、君に守ってもらう価値はないんだ。」
嗚咽を抑えて、かすれた声を出す。
「な、なんで…そんなこと言うんだよ。」
彼はベッドの上に上がり、私を抱え込んだ。
小さい身体で精一杯私を包み込もうとする。
首筋に当たる、布越しのオートメイルの冷たさが身体を冷ます。
「あんたの苦しんでるもの、恐いもの、罪も、全てから守ってやるよ。」
きつく抱きしめられる。
苦しいが、落ち着いてきた。
「オレ、頼りないかもだけど、ち、ちっさいし…、だけど、あんたを守りたいんだよ。決めたんだよ。」
「……。」
「あんたは、だって、苦しんできたろ?もう十分だって。」
「……。」
「こんな牢獄作って、入って、足枷作って、付けて、あんた、守ってやってんじゃん。」
「……。」
「オレ、少しだけだけど知ってるんだよ。この家のこと、この家から出ると殺されちゃうんだろ。」
「……。」
「だから、大きくなる前に執事さんの子供を里子に出したり、身寄りのない孤児院で虐待受けてた子とかを使用人として迎えたりしたんだろ?」
「……。」
「この家を辞めたくならないように、勤めてきたんだろ?」
「……。」
「あんたのこと、みんな大好きだよ。」
「……。」
「知らなかっただろ?」
ああ、それでも私の心には届かない。
届けてはいけないのだ。
罪に抗ってはいけない。
私は間違いなく罪人。罪の証。
「オレさ、今までいっぱい人を殺してきたよ。」
「……。」
「生まれたばかりの子供を殺したこともある。幸せに満ち足りた母親の顔が一瞬でこの世の不幸を纏った顔になった。」
「……。」
「オレの作った爆弾で大勢の人が亡くなったよ。」
「……。」
「それでも、オレは生きるし、人に愛されたいし、人を愛したい。」
「……。」
「知ってる?テルスの業火。あれ、オレが作った爆弾なんだよ。」
「……。」
「死傷者10万人。」
「……。」
それだけ言うと、彼は私から離れた。
彼を見るとやさしい顔をしている。
心許ない間接照明のあかりに照らされた彼の顔はとても、美しく、洗練されて見えた。
湖の女神はこんな顔をしているのだろうか。
「あんたが不幸にした人間、殺してしまった人間なんて些細なもんだよ。」
強いまなざしに惹かれた。
彼は自分の罪をすべて認め、受け入れ、そして、ここに立っているのだ。
「オレはさ、誰か…誰でもいいんだけど、一人でも幸せにできたらいいと思ってるんだ。」
照れながら笑うその顔は、いつもの幼い彼ではない。
「だからさ、あんたは苦しまくていいんだよ。あんたが望んだことでも、なんでもないんだろ?」
そういうと、彼はほとんど氷の解けてしまったブランデーのグラスを私に持たせる。
「これでも、飲め。」
言われるままに口をつける。
気持ちのいい冷たさに、心が溶けた気がした。
「流石に薄いな。」
二人で笑いあった。
彼と出会ってよかったと、不思議と軽くなった心が言った。
私は彼女たちに何ができるか考えた。
許しは乞えない。
何も知らない彼女たちの為に何かがしたいと思った。
「私に何ができるだろうか。」
彼は至極当然とばかりに言った。
「長生きしたらいいんだよ。」
彼は笑う。極上の甘い香りを振りまくような、そんな、顔をして。
「長生きして、自分がやったことを後悔し続ければいいんだ。そして、忘れなければいいんだ。」
それは本当に、天使のような微笑。
「それがオレに…、人にできる唯一の贖罪だろ?」
私は彼にしがみついた。
抱きしめたのではない。
小さな子供のように彼にしがみついた。
「“誰か”は、あんたにするよ。あんたを幸せにしたい。」
あやすように頭をなでられる。
その手は小さく、細い。
「あんたが幸せになれば、執事さんもみんなうれしんだ。」
わたしは小さな光を感じた。
それは暖かく、やさしい。
「そうか。」
「なに?」
「だから、君を探したんだ。」
涙があふれる。
君は知らない私の罪。
軽蔑するか?
君は知らない私の秘密。
それでも、ひと時でもこの許された気持ちを味わえた事を幸せに思う。
真っ暗の森、私は歩いていた。
光も何もない。誰もいない。
木々もシンと静まり返っている。
足元さえも見えないはずなのに、私は問題なく歩いている。
気が付けば朝で、彼の膝の上で寝ていた。
彼は私に覆いかぶさる形で、寝息を立てている。
幸福な朝。
私の起きた気配に気づいてか、彼も起きる。
「おはよう。」
「おはおうごじゃます。」
ひとつ背伸びをして目をこする彼は、顔をクシュッとさせて明るくなった部屋がまぶしそうにしている。
彼の膝の上は気持ちがよかった。
このまま猫になってしまってもいい。
「あー、あんた早くどいてくれ。足が痺れて…」
膝の上にいつまでも居座ろうとする私の頭をぺちぺちと叩く。
「私はこのまま猫になりたい。」
「寝言は寝てるときに言え、って、まだ寝てるのか?」
「いや、起きてる。」
彼の膝を十分に堪能して身体を起こした。
「うおー、足が…」
「どければよかっただろうに。」
「だって、あんたの寝顔とか初めて見たし、起きそうだったから。」
彼は大きく背伸びをして、痺れの残る足で自室へ向かった。
サイドテーブルに置かれた宝箱の中にまだ何か入っているのを見つけた。
それは昆虫の羽根に見えた。
手にとってしまうと崩れそうな気がしたので、そのまま覗き込んだ。
トンボの羽のように見えるそれは、影になった宝箱の中でかすかに光を帯びていた。
経営者として名高かった祖父はまた、科学者としても有名だった。
いや、科学を続けるために経営をしたといっても過言ではないか。
当時まだ先駆けだったバイオ技術を発展させた権威者として、未だに功績を称えられている。
その祖父の唯一の汚点。
それが私の身体には住み着いている。
誰にも見せてはいけないし、触れさせてもいけない。
残した理由はただひとつ。自分の研究を愛していた。それだけだ。
祖父は泣きながら私に言った。
すまない、申し訳ないと。
まだ幼かった私は、わからないまま祖父は他界した。
自己陶酔。詭弁。傲慢で欲深い。それでも、私は祖父が大好きだった。
この身体には、死が詰まっている。
祖父の研究を知った科学者はこぞって研究成果を探した。
しかし、見つからず彼らは落胆した。
だが、祖父のことをよく知る科学者はそれが私にあることに気づいた。
父は私を守るため、祖父の研究を隠すため、私を隠した。
私が死んだら、この研究も闇に消えるというのに、祖父の酔狂さには感嘆する。
「だいたい、あんた重いんだよ。どけるにどけれなかったんだ。しっかり、しがみつかれてたしな。」
そういうと、身体を伸ばした。
朝食に向かう彼と偶然、一緒になったのだ。
「それはすまなかった。私もそのまま寝てしまうとは思ってもみなかった。」
朝日のような笑顔を向けられて、照れながら彼に笑顔を返す。
「あんた、笑えるんだ。笑った顔はじめてみた。」
目を見開いて驚いた顔をしたかと思ったら、花が咲いたように笑った。
「笑っていただろう?」
「不敵な笑みとか?引きつった笑いとか?あんた、顔キレイなんだからもっと笑ったらいいよ。」
アハハと声を上げながら彼は駆けて行く。
窓の外の景色がいつも以上に輝いているように見えた。
彼は、いつもと同じように豪快に食事を取った。
席は離れているが、彼を見るのはこの上なく楽しい。
ジャムを口の端につけて、次のパンへと手を伸ばす。
誰も取りはしないのにと思いながら、次から次に入れていく胃袋のことを考えると驚くしかない。
「あんたさ、頭に傷あるんだね。」
「ん?」
「この辺からこの辺くらいまでぱっくり。」
彼は頭を指でなぞった。結構な距離に驚いた。
「幼い頃に怪我でもしたんだろう。」
「あはは、仲間だな。傷仲間。」
彼は自室に駆けて戻った。
怪我…をした覚えはないが…。
そして、その日も朝から机につき仕事をする、サインをする手が軽い。
昼食前、執事を部屋に呼んだ。
「私の代で、マスタングを終わらせられればと思っている。」
執事は眉ひとつ動かさなかった。
「先代達には悪いが、この奇妙な家は私で終わらなければいけないと思うんだ。」
彼は静に私の声を聴いている。
「少しずつ、経営を外部に任せていこうと思う。」
静にかしこまりましたというと、彼は部屋を後にした。
祖父の罪は私に刻まれている。
そして、父の罪もまた、私に刻まれている。
いや、この家の存在自体がまた、罪なのだ。
静かな毎日と、穏やかな空気がこの家に広がっている。
毎日を淡々と過ごす。
君は時折私に笑いかけ、言葉を交わし、そして、…。
私はこんな日々がずっと続くと思っていた。
NEXT→
←BACK
2007/04/11up
Copyright(C) min All rights reseved.
|