オレは自我というものがとても薄かった。
知識を得れば、全てを海綿のように吸収した。
とめどない記憶の海。
それを漂う喪屑のようにオレは生きてきたと思う。
人間らしいところと言えば、弟の歌声に感動したり、夢を見たりするくらいだったと思う。
子供らしい喧嘩なんか、あまりしたことが無かったように思う。
弟とだって、喧嘩するまでに発展することは稀だった。


あの時、他の研究所への研修を選んでいたならきっと、オレはそのままだった。
ここへ来て、あいつに出会えてよかったと、本当に思っている。
自分がどこへ行きたいのか、何がしたいのかが見えてきた気がする。
足りないものって、それだったのかもしれない。


次、あの夢を見ることができたのなら、きっとまた手をつないで歩いてるんだろうな。
そうしたら、絶対相手の顔を拝んでやる。
でも、あいつだっていう確信がある。
だって、そうだろ?









くろねこ通信※黒猫の用心棒の続きみたいなもの※

第6回 くろねことうそうちゅう










まるでそれは、懺悔を聞いているようだった。
うつむき加減の糞餓鬼の表情は見て取れないが、声でわかる。
生きているのが、悪いことのように言う。
「生きて呼吸している実感が、持てるようになった。」
「そうか。」
前向きなことを言っているにもかかわらず、どこか頼りない声。
「あんたのお陰だよ。」
こちらを振り向いた顔は、笑顔かと思ったら至極複雑な顔を見せていた。
「そんな大層なこと、した覚えはないがな。」
こちらが肯定の意を表すとやっとのこと、笑顔に変る。
夏休み、昆虫採集、プール、海水浴、秘密基地…そんな言葉が似合うその顔は、本当に糞餓鬼だ。
「オレ、目標ができた。あんたとオレの遺伝子の接点。いや、違うな。遺伝子の共鳴原理。」
言ってることは、それとは大きく違うが…
「は?」
「運命の出会いとか、そういう事言ったり、思ったりすることに対してだよ。」
「それはまた、とてつもなく曖昧な研究だな。」
「だから、いいんだよ。」
「そういう、ものかね?」
「生涯を通してこの研究をしていきたいと思えるんだ。」
「そりゃ、よかったな。」
オレが笑いかけると、糞餓鬼は照れたように笑って、一歩前を歩いた。


「あれ?ロイは向こうの道だろ?」
「ん?」
「いや、だから、ロイは家があっちだろう?学校までついて来る気かよ。」
「離れたくない顔してるから?」
「し、してない。」
夕焼け色に染まる糞餓鬼の頭をくしゃくしゃに撫でた。
嫌そうな顔をしながら、どこかそれがうれしそうに見えるのは、気のせいではないはずだ。
「明日も、もしかしたら、夢でも会えるんだ。別れを惜しむ必要は無いんだがな。」
そう言ってしまったオレは、自分が離れたくないのだと気づいた。
だから、手を取って学校への道を歩いた。
微妙な時間。
体裁を気にする性質じゃ無いが、帰宅部も委員会活動の連中も帰った頃だし、部活に勤しむ連中はまだまだだ。
「ひっぱんなって。」
ふと、オレは自然とあいつの左手を握ったことに違和感を感じていた。
「なぁ、なんでオレはいつもお前の左手をつかむんだろうか?」
「しらねぇよ。」
「これがヒントなんじゃね?」
「ヒント?」
「そうだよ。」
「オレは絶対右に立って、お前の右手を掴もうとは思わないんだ。」
「オレも、左手を差し出すな。」


オレ達は、よくわからない確信と疑念を持って別れた。


その日、珍しくテレビなんぞをつけっぱなしにしていた。
勉強する気にもなれず、寝てしまうにも早い時間だ。
こういう時、趣味があればそれに費やすこともできたのだろうが、あいにくオレは暇を費やす限りだ。
さして面白くもないお笑い番組を眺めていた。
突如、ニュース速報がテレビ画面の上部に流れた。
地震情報か、そのあたりだろうと眺めていたら、どうやら違うようだ。
どこの国かは見逃してしまったが、どこかの国でテロ事件が起こり、死傷者が出たという事だった。
その後、5分も経たない内に、画面が切り替わり、音声と画像がチグハグな生々しい映像が流れだした。
右翼派のテロリストが仲間の解放を訴え、テルス市街のど真ん中に爆弾を撒き散らした。
テロリストはあっけなく掴まったはいいが、肝心の爆弾が処理できずに爆発。
避難勧告も間に合わず、死傷者が数万人出ると予想されると。
遠くの国のオレ達には何の関係もないところで起こる、悲惨な事件。


その日、オレは珍しくも夢を見なかった。
ただ深く、深く眠っていたように思う。


昨日の事件は、「テルスの業火」と早々に命名され、どのチャンネルもそれについて報道していた。
死傷者は十数万人に上らしい。


「テロだって、恐いな。知り合いとか、大丈夫だったか?」
「何人か、連絡がつかないって、研究所は今大変なことになってる。」
教室に入ると、いつものように専門書を読みふけっていた。
「そうか、行かなくていいのか?」
「行ったって、何の役にも立たねぇよ。」
「それもそうだな。」
「皮肉なもんだな。その人の心配より、その人がやってた研究の方が心配だなんてさ。」
「そんなもんだろ。」
きっと、こいつもそっちの方を先に考えたんだろうな。
研究員って、命よりもそっちの方が大切とか、そんなもんなのだろう。
「それじゃ、駄目だと思うんだよ。人間的に。」
「そうか?」
「そうだよ。薄情すぎる。」
「研究をするってことは、それに命も体も、思想も全て捧げるってことだろ?」
「そうだけど…なんか違う。」
「きっと、死んでしまっていたとしても、そいつらも自分が死んでしまう瞬間は、自分の命よりも、研究のことを考えたんじゃね?」
「うーん。」
「お前だって、そうだろ?」
「そうだけどさ。」
「後からでもこうやって、苦悩しながら心配している奴がいるってだけで、浮かばれるもんだって。それに、研究から離れたところにいる友達とか、家族とかはさ、真剣にそいつらの命の心配してるんだから。お前が悩むことはねぇよ。」
「うん。」


その日、学校も騒然としていた。
4時限目の最中に、職員が糞餓鬼を呼びに来て血相を変えて出て行った。
オレのほうを振り返り、不安げな顔を見せたので、オレは大丈夫と言う意を込めて大きくうなづいてやった。
その日、糞餓鬼は戻ってはこなかった。


つけっぱなしのテレビからは、相変わらず「テルスの業火」のニュースが流れている。
爆弾の写真が手に入ったと、画面に大きく映し出されたが、ブレてそれが何かも判別しかねる写真だった。
専門家が爆弾についてよくわからない解説をしたり、製作者の思惑と、残忍性を知りもしないのに、まるで知っている相手のように説いた。
世界各国でもテロの脅威が懸念されると、空港は警備体制を強化したり、武器保有者の身元確認などにも勤しんでいると報道された。
時折、逃げ惑う事件当時の映像が流れ、事件がフィクションではないことを世間にしらしめた。
大方、携帯の録画機能でとったのだろう。
それはとても荒い画像で、音声も飛び飛びだった。


「ただいま。めずらしいのね。」
本日もまた、テレビ画面に夢中になっていた。
なんとなく気になったのだ。
世界情勢云々などは一介の高校生として知識として入れる程度であったが、この事件だけはなぜか気になっていた。
「お帰り。」
偶にブラリと帰ってくる母。
「何か、軽く食べれる?」
「用意する。」
オレは、台所にたった。
母は全く料理をしないので、自然とオレがするという形になる。
「このニュース…、酷いわよね。」
「うん。」
「何を思って、テロを起こすのかしらね?」
「さあ。雑炊でいい?」
「いいわよ、きのこは入れないでね。」
「わかってる。」
母は、何をしているかわからない。
周りは落ちるところまで落ちたといっているが、彼女には今の暮らしがあってると勝手に思っている。
社長秘書から、水商売。
そうやって言えば聞こえは悪いが、秘書時代に築いた人脈でうまくやっているようだ。
「お客さん、2人亡くなったのよ。」
「そう。」
「いい人だったのよ。人望も厚い…、どうしてそういう人ばかり早くに亡くなるのかしらね。」
けっこうお酒が入ってるみたいだ。
蓋の周りに泡が立ってきた土鍋を見つめて、ころあいを見て卵をとかし入れ、火を止めた。
「飲みすぎだよ。父も心配する。」
「しないわ。」
カウンターキッチンで、そのまま鍋敷きを転がし、その上に土鍋を置いた。
「するよ。だから、この家を追い出さないんだろ?」
「そうね。」
「それに、リザの母さんも心配してる。」


「森の話って、聞いたことある?」
「なに?本当のお母さんがよくしてくれたって話?」
「そう。」
「わたしは、あなたから聞いたことぐらいしか知らないわ。」
蓮華に少しだけ乗せて、冷ましながら食べる。
真っ赤に塗られた唇。
不思議と、この人にだけには嫌悪感を抱かなかった。
「そうね。あなたが話してた夢の話と似てるわよ。」
「マジで?」
「こら、そういう言葉を使うと、品格が下がるわよ。」
「わかった。次からは気をつける。で?」
「それが印象的で、他はあまり覚えてないわ。」
ゆっくりと食べながら、思い出そうとしてくれていた。
「どうかしたの?話なら、直接聞いたほうが早いんじゃない?喜ぶんでしょう?」
「まぁ、そうなんだけど。母には話したことないんだよ。夢の話。」


今は落ちぶれた、領家の娘。
父は、こっちの母とは政略結婚だったらしい。
おかげさまで、礼儀作法云々には口うるさく、人前に出ても恥ずかしくないようにと育てられた。
母としては、あまり褒められたことはしていないが、人間的にはとても尊敬している。
どちらかというと、リザの母さんの方がそれらしい。
長年のお隣同士で、小さな頃は預けられることも多かった。


「まだ見るの?」
「たまに。」
「そう。でも、だんだん、実年齢に近づいてるんじゃない?」
「身長は同じくらいになったと思う。目線の高さに違和感がないんだ。」
「そうなのね。『夢の中ででっかいおじさんになっちゃった。』」
「なにそれ。」
「はじめてまともに夢を見た日のわたしへの報告。」
「そんなこと、言ってた訳ね。」
なんとなく、気恥ずかしくなった。
こういう場面でも、姿勢を正し、肘をつくことも無く綺麗に食べるこの人は、とても綺麗な人だと思う。
「誰だか、わかったの?」
「見当がついたんだ。」
「そう。それはよかったわね。運命の人との出会い。ステキね。」
「ありがとう。」


時計を見ると、10時を過ぎていたので、明日辺り電話しようかと考えた。
テレビからは相変わらず、テロの情報が流れてきている。
経済的被害、物的被害、そして、人的被害。
遠くの国での出来事ではあるが、なぜか近くに感じていた。
きっと、母の店の常連が亡くなったと聞いたからだ。


ぬるま湯に浸かるようなしっとりとした空気の中、また森を一人で歩いていた。
テレビの影響か、どこか遠くで叫び声が聞こえていた。
それと、すすり泣く誰かの声。
あいつのような気がして、一生懸命走ろうと努力したが、体は思うようには動かず、ただゆっくりと森の中をあてどなく歩いた。
近づくようで、遠のくようで、はっきりとしない距離感が、いやにまどろっこしかった。
駆け出したかった。
でも、オレの体ではないように、いうことをきかなかった。


珍しく、すっきりと目覚めた。
糞餓鬼の様子が気になったが、連絡先を知らないことに気が付いた。
そういえば、携帯電話を使っているのを見たことがない。


「え?連絡先?いいけど。」
「ごめん、ちょっと急用。」
遠回りだが、確実だ。
リザから、ハボック青年の連絡先を聞き出して、彼から弟、糞餓鬼の連絡先とつなげられれば問題はないはずだ。
だだっぴろい学院の敷地内を、研究所を探して走り回るよりは効果的に思えた。
学校に行って、いなかったらそうしよう。
新たに増えたメモリを眺めながら、糞餓鬼のことを思った。
「先生、なにかあったの?」
鋭い幼馴染におどろいた。
「どうして、思考がそっちに行くんだよ。」
「ん?なんとなく?」
こいつに嘘をついても仕方がない。
「昨日、研究所から召集がかかったんだよ。」
「そうなの。」


バスを降りると、見たことのある少女が立っていた。
校門の前で右往左往している。
「ウィンリィちゃん?」
「あ…。」
「どうしたの?」
「エドに、ちょっと用事があったんだけど、入っていいものかと…」
「ああ。」
見事に、研究所を探して奔走するはめになりそうだ。
「あいつ、携帯とか持ってなくて、研究所も電話がつながらなくて。」
「そうなんだ。」
「ごめん、リザ。このこ連れてエドのところに行ってくる。」
「わかった。」


兎も角、大学院の方向に向かえば間違いは無いと、それに向かった。
こっちにくることは無かったため、所々で立つ地図を頼りに歩いた。
時間が早い所為か、大学の事務所はまだ閉まっていて、頼ることができない。
キックボードを使うことから考えて、近くはないはずだ。
研究・実習棟と記載されている方向へ足を向けると、それっぽい白い建物があった。
入口では何人かの白衣を着た研究員と思われる人が、携帯電話片手に慌しく行き来していた。
「あそこかな?」
「それっぽいですね。」
こちらに気づいていないのか、まったく相手にされない。
忙しくて、それどころじゃないのかもしれない。
入口の脇で、小休憩とタバコをふかす研究員を見つけて、寄っていくとあちらも認めたのか、こちらを向いた。
「高等部の生徒が何の用かい?」
「あの、エドワード・エルリックを呼んで欲しいんですが。」
「あ、ああ。あいつなら、さっき寝に行かせたから、2階の端の休憩室で寝てると思うよ。勝手に入ってもか…まうか。その恰好はまずいな。」
制服のオレをじわっと眺めた。
携帯電話を取り出して、どこかへ連絡をはじめた。
「すまん、起こしてきてくれ。…いや、客人だ。」
慌しい、研究所。
きっと普段、研究員は作業に没頭し、閑散としているのだろう。
「すみません。」
「いいって、こんなところに来るなんて、よほどのことだろ?」
「ええ。」
「あ、もしかして、おまえロイか?」
唐突に立ち上がり、タバコを向ける。
「は?はい。そうでうが。」
「エドの言ってたとおりだな。あはは。まぁ、仲良くしてやってくれ。」
「はい。」
「で、そっちが幼馴染のウィンちゃん。」
「ウィンリィです。」
にっこりと笑う顔はどことなく恐かった。
きっと、糞餓鬼がこの子をからかう時にそう呼ぶのかもしれない。
「そうだった。そうだった。もうすぐ、降りてくるよ。」
「はい。」
タバコをひとつふかして大きくその人は背伸びをした。
「学会間近の研究の資料がひとつ吹き飛んでね。写しを取る前だったから、大慌てだよ。そいつも一緒に吹き飛んでるしさ。」
あけらかんと言うその台詞とはうらはらに、表情は険しかった。
“そいつ”とこの人は確かな信頼関係の上にいたのかもしれない。
どことなしか、目元が赤い。


「ロイ!ウィンリィ!」
叫び声と共に、豪快に登場。
いつもとは違う雰囲気。
メガネに白衣。
ようやっと、こいつがこの空間の人間なんだと実感した。
「すみません、ありがとうございます。」
「いいって。って、寝てなかったのか?」
「寝ようと布団を引っ張り出したところで、呼ばれたんです。」
「そうか、すまんすまん。」


「どうした?」
「あの、エド…落ち着いて聞いてね。グリードさんが、亡くなったって。」
糞餓鬼の表情が固まる。
「は?」
「わたし、今から緊急帰国することになったの。」
「亡くなったって、どうしてあいつがテルスにいるんだよ。」
「講演会があったらしいの。」
「そ、そうなのか…。」
「えど、グリードさんって、あのグリードさんか?」
さっきの親切な研究員が蒼い顔をして、エドの肩をつかむ。
「そうだよ。」
この声を聞きつけてか、辺りが騒然としはじめた。
うなだれた糞餓鬼は、今にも倒れそうだ。
「ロイ…オレ、しばらく学校に行けないから。他の先生たちは知ってる。」
「わかった。」
「エド、気をしっかりもってね。もう、時間無いの。ごめんね。」
「いいよ。お前だって、辛いだろ。」
「大丈夫よ。飛行機の中で思い切り泣くから。」
「そうか。」
「うん。」
静に笑って、エドの肩を軽く叩いた彼女の顔は、どうみても気丈に振舞っているとしか思えなかった。
きっと、初めて言葉にしたのだろう。


彼女を正門まで送ると、タクシーが待っていた。
戻りながら、電話したのだ。
「ありがとうございます。」
「いいよ。あいつのことが心配だったし。」
「エドのことも、お礼言わせて。あんなに生き生きとしてるエドって、はじめてみたわ。」
「うん。」
惜しむ別れは無い筈なのに、なぜだか悲しい気持ちになった。
もっと、彼女にしか知らないあいつの話をしたかったのかもしれない。


教室に入ると、既に1時限目は始まっていて、教師は聞いているとひとこと言ってオレを席に着かせた。
空席の隣を横目で見て、焦燥に駆られた。
授業に身を入れようと必死になったが、空回りしていた。


放課後を待って、もう1度研究所まで行った。
朝とは違い、静かな空気を纏っていた。
科学部の部員に白衣を借りてきていたので、それを羽織って研究所に入った。
白い扉に白い廊下。
別世界に迷い込んだ気分になったが、様々なドアから聞こえる、すすり泣く声や、大泣きする声、罵声に我に返った。
とりあえず、2階の端の部屋を目指した。
もしかしたら、いるかもしれないという期待だ。
部屋の前まで来ると、『エド専用』と大きく紙が張られている部屋があった。
ノックしても返事が無く、不法侵入よろしくで、部屋に入った。
「オレは、あいつの代わりなんてしねぇぞ。」
上ずった声。
きっと泣いているのだろう。
閑散とした部屋の書類の散らかった机の上で、そのままの状態で突っ伏していた。
「エド。」
はっと振り返る糞餓鬼の顔は、真っ赤で、目元は晴れ上がっている。
「ろ…い?」
「オレに側に居て欲しいのかなと思っ…
すべてを言い切る前に、糞餓鬼は椅子を倒しながらダイレクトアタックを決めてきた。
胃と、背中に鈍痛を感じながら、オレは小さな双肩を受け止めた。
「ロイ…」
「ん?」
そして、大声を上げて泣いた。
どれくらいそのままだっただろうか。
きっと、制服と白衣は、こいつの涙と鼻水で大変なことになってるのだろう。


「グリードって人が、例のバスケットボールの人か。」
なんとなく、予想はついた。
話を纏めると、こいつはちょっとやそっとでは懐かないようだし、ここまでになるのも相当だろう。
ということは、該当者は一人しかいない。
頷きながら鼻水をすする、糞餓鬼が愛おしいと、場違いながら感じた。
ソファーベッドに寝かせて、部屋の隅に置いてあった冷蔵庫から奇跡的にあった保冷用のアイスをタオルにくるんで渡した。
「気持ちいい。」
「いい人だったんだな。」
「うん。」
大きくため息をつく。
「研究者としても、すごい人でさ。みんな、好きだった。」
「そうか。」
静に起き上がると、脇に座っていたオレに倒れこんできた。
お陰で、押し倒される形になっている。
「慰めろ。」
「充分、なぐさめてるだろ?」
「足りない。」
「どうしてほしんだよ。」
「抱きしめて、頭を撫でてほしい。」
「さっきもしただろ。」
「それでも。」
「はいはい。」
オレは言われるままに、きつく抱きしめ、頭を撫でた。
寝息を立て始めたのはそれからすぐのことだ。
朝、別れてからも寝ていなかったのかもしれない。
寝れるわけないか。


身動きが取れないなと思いながら、静に頭を撫で続けた。


森の中でオレはまだ、ひとりで歩いていた。
胸がただただ苦しくて、泣き出しそうだった。
体は相変わらず、いう事を聞かずオレの意思とは無関係に歩き続けていた。


外泊よろしく。
気が付くと朝で、ドアの向こうには昨日の親切な研究員が珈琲を持って立っていた。
どうやら、珈琲の匂いで目が覚めたらしい。
とてもいい匂いがする。
「お、はようございます。」
「珈琲は3ついるらしいね。」
「すみません。」
そう言って、散らかった机の書類をよけて手に持った2つの珈琲カップを置いて、出て行った。
糞餓鬼はオレの腹の上でまだ寝ている。
保冷用のアイスはまだ溶けきっていないらしく、いつのまにかオレの肩のところに落ちている。
左肩の感覚が無いと、それをよけようとしたが、うまく手が届かなくて諦めた。


「こんな恰好ですみません、起こした方がいいですか?」
「そのままでいいよ。」
「はぁ。」
「ちっちゃいのが、徹夜で、恩人の死でショック受けて、やっと安心できたんだろう。」
静に笑うこの人がとても大人に見えた。
「ん…、痛い。」
いや、痛くて重いのはオレの方だって。
と、心の中で突っ込みをしていたら、大きな瞳をまん丸にさせて現状に驚いている糞餓鬼を眺めた。
「いいから、起きてくれ。このベッド、下手に柔らかくてこっちからは動けないんだ。」
「あ、ああ。」
まだ何がなんだかわかっていないらしい。
「おは、よう、ございます。」
「洗面所は部屋でて、真っ直ぐ行ってすぐのところを右にあるから。」
タオルを投げてよこし、オレ達は部屋を追い出された。
寝ぼけ眼の糞餓鬼はまだ、現状を把握しきれていないらしい。


「お前は昨日、あれからそのまま寝ちゃったんだよ。」
「ん…、ごめん。」
いまいち覚醒とは程遠い糞餓鬼の頭をひとつ撫でた。
時計を確認すると、7時を少し回ったところだった。
慌てて、オレは携帯を探し出し、リザに連絡を入れた。
「ごめん、そういうことだから。」
わかったと、こちらも寝ぼけた声を出していた。
ありがとうございますと、少しさめかけの珈琲を受け取ると、いい香りに全身が醒めるようだった。
インスタントではない芳醇な香りが体を包む。
「今日は?サボるのかい?」
「家に戻って着替えたいですし。」
「そうか、そうか。なら、こいつを持って帰ってくれないか?」
「はい?」
糞餓鬼も目を丸くして驚いている。
「なんで?やることいっぱいあるだろ?もう、大丈夫だって。」
不安げな顔は、昨日予想したとおり腫れあがっている。
「んー、さっき鏡で顔見たか?酷い顔をさらして余計な気を回されたいかい?」
「う…。」
「ということだ。今日1日とは言えないが、夕方まで遊んでこい。気晴らしも重要だ。」
「餓鬼扱い…するなよ。」
語尾はいやに消極的で、消え入りそうだった。
「お前は、まだ子供だ。」


オレ達は登校前にと、見事に研究所を追い出された。
着たまま寝た制服は、異常なまでに皺がよりなんとも惨めな恰好だった。
「ああ、今日1日何しよう。」
「そうだな。すくなくともお前は確実に補導員に捕まるからな。」
「うーん、それは否定しない。」
朝日を浴びながら学校とは逆方向に走るバスに揺られながら、優越感を感じていた。
朝帰り。
悪びれもせず、堂々と。


バス停に着くと、丁度リザがこちらへ向かってきていた。
「おはよう。酷い格好ね。」
「うるせぇ。」
「先生も一緒なのね。」
「お、おはよう。」
「おはようございます。先生も、酷い顔ね。」
にっこりと笑うリザの顔になぜだか安堵した。


「飯の支度するから、先にシャワー使えよ。」
「ああ。」
「タオルはそのへんにあるのを適当につかっていいから。」
「わかった。」
腹の虫は、夜中のうちに大合唱を終えたらしく、いやな空腹感だけが腹の辺りを支配していた。
冷蔵庫を開けるとほとんど食材が無く、寂しくモーター音だけが響いていた。
それでもどうにかなるもので、ある食材で簡単なものを作ろうと意気込んだ。


「ロイー。」
「なんだ?」
返答がないので浴室に向かうと、どうやらシャワーの出し方がわからないようだった。
「シャワーが出ないんだけど。」
「こっちのコックで、シャワーかカランか変えるんだよ。」
カランが出っ放しなのに気づかなかったのがいけなかった。
勢いよく出始めたシャワーを頭からかぶってしまった。
しかも水。
色々といじくり回したらしく、温度設定が水になっていた。
叫ぶオレと、笑う糞餓鬼。
阿鼻叫喚よろしく。


「いや、ごめんって、他人の家の勝手なんてしらねぇし。」
「ウィンリィちゃんの家とか、友達の家とか泊まりに行ったことねぇのかよ。」
「ウィンリィの家はオレの家と同じで、シャワーの蛇口と別々なんだよ。」
「そうかい。」
「友達の家なんて、お前の家がはじめ…」
「ん?」
「お前は、オレの友達なのか?」
素っ裸の糞餓鬼と、今正に半裸のオレ、異様な空気と言えばそれまでで、答え方によってはこの先があるのかないのか。
いや、期待するだけ損なので、気づかなかった振りをすることにした。
「運命の相手?」
「いや、それ意味わかんねぇし。」
「だろうな。じゃぁ、友達以上恋人未満でいいんじゃね?」
「そんなところなんだろうな。」


そのままなし崩しに一緒に入って、泡だらけになってお互い笑った。


お腹が空いたと言う暴君を大人しくカウンターテーブルに座らせると、調理をはじめた。
トースト用のパンが何枚かあったので、フレンチトーストを作ることにした。
先に自分用の甘くないのを焼いて、その後に、砂糖をたっぷり入れて焼いた。
その傍らで、ウインナーをボイルし、レタスを洗って切って盛り付けた。
「器用だな。」
「器用貧乏って言うんだよ。」
「いいじゃネェか。オレは卵を割ることすらできない。」
カウンター越しにまじまじと完成する料理を眺めている。
糞餓鬼用のフレンチトーストは甘い香りを漂わせ、ダイニング全体を包んでいた。


「おいしい。」
「そりゃ、お前好みに、砂糖をふんだんに使ったからな。」
「そっちは甘くないの?」
「それなりには甘いが、お前のほどではないよ。」
口を大きく開けるので、その中に大きな一切れを押し込んだ。
むしゃむしゃと口いっぱいにして食べるその顔は、だんだん険しくなってくる。
「牛乳と卵とパンとバターの味しかしない。」
「そうだろうな。」
「うえ、牛乳…」
そういいながら、母用のグレープジュースを出してやったのを一気飲みした。
「そっちも、牛乳入ってるんだけどな。」
「味がしないから、いいんだよ。」


午前中は家の中でごろごろすることにした。
糞餓鬼が気に病むといけないと思い、テレビもラジオもつけずに、静かな空間の中で参考書を読んだり、質問をぶつけたりした。
数学は例の難問を解けない順に解説してもらって、色々と納得半面、驚いた。
「数学なんて、ちょっとした思い付きで解けるんだよ。公式なんか決まりきったものだしな。」
安易に言ってのけるこいつを憎たらしいと思ったが、素直に尊敬できた。
(下手な参考書の解説なんかより丁寧でわかりやすいのだ。)
「その思いつきで困ってるんだよ。発想の転換なんて、簡単にできたらこの世の天才はお払い箱だ。」
「違いない。」
ごろごろしながら、教科書・参考書を中心に向き合っていた。


昔の服がすぐに見つかったので、それを引っ張り出して着せてやった。
着る奴によって、服というモノは表情を変えるようだ。
着古しているにもかかわらず、雑誌を切り取ったような風貌に見る。
少し大きめなのは、きっと糞餓鬼が細すぎるからだと思う。
ズボンのウエストがどれもぶかぶかだったので、最終的には紐で結ぶタイプの短パンを貸してやった。
足なんかは細くて、白くて、つるつるだった。
少年特有のケガや虫刺されなんかは無く、温室育ちというか、完全なる引きこもりのように思えた。
「いや、引きこもりと一緒にされても困る。すくなくともオレは世界規模の貢献をしている。」
「まぁ、そうなんだがな。温室育ちというのも抵抗があるからな。」
「じゃあ、地底人ぐらいでいいよ。」
「いや、研究所に地下室ないだろう?」
「それが、あるんだよ。夜な夜な人体実験が繰り広げられ、地獄絵図の如く、断末魔の叫びが…」
「馬鹿言え、人体実験云々なんて研究はしてないだろうが。」
「あはは、ばれた?」
「バレルも何も、現実味がない。」


どうも、オレ達は暇というものが苦手らしく、大方の数学の難問を解いてしまうと時間をもてあました。


森をゆっくりと歩いていた。
胸は苦しくて、意識も朦朧としていた。
音は無く、シンと静かな、張り詰めた空気が森を覆っていた。
あまりにも静なので、オレの耳がおかしくなったのかと思ったほどだった。
しかし足元から、草をする音が聞こえているので、キチンと聞こえてはいるようだった。


目を覚ますと昼前で、どうやら、また寝てしまったらしいとうんざりした。
それでも、2時間も寝ていなかったことに安堵し、絨毯の上にそのまま寝た体が所々痛いのにうんざりした。
顔を上げると、隣でスヤスヤと寝息を立てている糞餓鬼。
寝顔を見るのも何度目だろうか。
綺麗な睫毛。
キラキラと星でも飼っているのではないかと思うほどだ。
色素の薄い肌や、形の良い鼻、唇。
呼吸をしていなかったら、まるで人形だ。
小さくうずくまって寝るその姿を眺めながら、幸せな気分になった。
生きて隣で呼吸していることの幸せ。
触れれば暖かいということの幸せ。
オレをその両眼で見つめてくれるという幸せ。
オレは、なんと幸福なのだろうか。
蜜色の髪に指を通すと、さらりといい匂いがした。
同じものを使っているはずなのに、とても甘く艶美な香りがした。


「ん?ロイ?」
「おはよう。」
「おはよう。」


オレはそのままエドの頬にキスを落とした。
仰向けに体を返し、額に、目に、鼻に、そして、口にキスをした。
自然と回された腕は、肯定の意を表していた。
そのまま、オレ達は唇を重ね、確かな体温と感情を共有しあった。


気持ちが通じた気がした。
でも、どこかで何かがゾワゾワと音を立てているようだった。
それが何であっても、オレ達は運命の相手なのだと、恐れはないと、そう思った。
そうだろ?
オレがこいつを好きで、こいつもオレが好きで、お互い生きている。
それ以外に何を望み、求める必要があるのだろうか。




ねくすと>>
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2007/08/09up

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