慌しい空気が寂しさを紛らわせた。
あいつと共に過ごした時間なんて、僅か過ぎるはずなのに、確かな時間としてオレを支配した。
そこに居る事が自然すぎて、いない今がとても居心地が悪い。
それでも呼吸して…、毎日をこうして生きている。


周りはオレが変ったと言う。
オレ自身もかわったという自覚がある。
乳白色でかすんでいた世界が、こうも色鮮やかにキラキラと輝いている。
ただ受け流すだけの研究も、興味と熱意を持って挑むことができている。
新たな発見に必要以上に心が躍る。


会いたい。
会いたいよ。
ロイ。








くろねこ通信※黒猫の用心棒の続きみたいなもの※

第8回 きんねことくろねこのきょり









早いもので、あれから3ヶ月が経った。
一部は受験モードでカリカリし始めている。
持ち上がり組みは、ゆったりとした時間を送っている。
勿論、オレは後者だ。
いつものメンツも後者である。
高校生を満喫と、青春謳歌を決め込んでいる。
学部も見事バラバラなので、卒業してしまえば会おうという気がないと会えないのだ。
あれから糞餓鬼とは、メールのやり取りを何度かするに終わっている。
簡潔、簡素なメール。
近況報告。
必要以上に記せば、会いたい気持ちが増すことはお互いわかっていた。
今回のメールは以下の通り。

「オレは元気です。
毎日忙しい。
研究はイマイチ進まない。
原因がわからない。
そこの部分のデータが見事にないので、はじめからだから泣ける。
ウィンリィにオレの作った飯を食わせた。
おいしくないと言われたけど、全部食べてたので、食べれないことは無いと思う。
また、メールする。」

何を作ったか気になったが、気にしないことにした。
ただ一方的に近況を報告する。
それがオレ達のルールだ。
それと、オレのルールだが、メールが来て3日以内は返信しない。
あいつは忙しくて、まともにメールをチェックしていないかもしれないし、待っていたみたいで、なんか恥ずかしかった。
あいつからの返信も早くて3日、遅いと2週間。
オレの存在なんか忘れているのかと、やきもきする日々もあったがもう慣れた。

「先日、風邪を引いた。
原因はヒューズ達と夜中の海に行ったからだ。
本格的にブロッシュがロスに振られた。
なぐさめるために海なんて、青春たぎっていてうらやましいだろう。
こっちは、ゆったりとした授業の総復習で、暇も同然だ。
来週から自動車学校に通うことにした。
まずは、4輪。
そのうち、2輪も取るのでどうしてもというなら乗せてやる。
いつ会え

ここまで打って手を止めた。


そのうち、2輪も取るのでどうしてもというなら乗せてやる。
また、メールする。」


大きくため息を吐きながら、送信ボタンをクリックした。
あっちは、今何時だろうか。
時計を見るたびに距離を感じてしまう。
9時間の時差がある。
それだけの距離だ。


挨拶もないまま旅立っていった糞餓鬼を、誰も責めようとはしなかった。
担任が淡々と、事情をかいつまんで説明したぐらいだった。
事情が事情なだけに、仕方がないと割り切れたのだろうか。
それとも、オレに気を使ったのだろうか。
それから1週間と経たない内に、糞餓鬼の弟がオレを尋ねてきた。
中学の制服に、目を引く容貌。
一種のカリスマ性を思わされたが、本人も至極それに馴染んでいて違和感を覚えさせられなかった。
1枚の紙切れと、これからもご迷惑をおかけしますというのを端的にオレに伝えて去って行った。
見慣れた汚い文字で書きなぐられたメールアドレス。
直通と下に記されている。
人に教えることがほとんどないメールアドレスなのだろう。2箇所ほどスペルミスしたか、塗りつぶした後に訂正してある。
彼は既にうちの高校に受かっていて、週に一度特別授業を行っているらしい。
どう考えても、飛び級をもくろんだものであろう。
才能はともかく、本人としてはバンド活動の妨げになるものを消して行った結果だが、不本意この上ないであろう。
そう以前聞いたら、本人はさして気にも留めていないようだった。
「ボクは、歌えればいいんです。」
グリードさんが亡くなってからというもの、彼は頑なだった。
貪欲に歌うことだけに、生きる全てを捧げていた。


…志望でいいんだな?」
「はい。すみません、この時期になって進路の変更をしてしまって。」
「いやいや、いいんだよ。今までの君はどこか、そうだな、受け流す形でいたようだから。」
どこかで聞いたことがあると思いながら、失笑した。
同じ穴の狢。
『夢』抜きで考えても、オレ達は似たもの同士で、だから惹かれあったのかもしれない。
最後の最後に進路をがらりと変えて申し訳ないと思いながら、職員室を後にした。


父親の会社を継ぐという、将来もあった。
このまま、経済学部を卒業して、5年ぐらい他の会社で学びながら働いて、会社を継ぐのも悪くないなと思っていた。
3人ともそう思っていたし、不満も無ければ、あたり前のことだと思っていた。
父親と久々に会い、ドンパチやったのはほんの数日前。
本当はもっと前に言おうと頑張ったが、タイミング悪く長期の海外出張をしていたのだ。
最終的には折れた。
オレの変化に大変喜んでもいた。
オレ達は、変わることができたのだ。
育ての母は、このことを聞くやいなや大笑いした。


「おわった?」
教室に戻ると、リザがオレの席に座っていた。
勉強熱心な彼女の手には、しっかりと参考書。
「待ってたのか?」
「今日は、真っ直ぐ帰るんでしょ?」
「ライブがあるんだろ?」
「覚えてたんだ。」


この3ヶ月、何の因果か研究の手伝いをさせられている。
主に雑用だが、一応わずかだがバイト代なるものも貰っている。
学校が終わってからの3〜4時間だ。
資料の整理とシャーレや試験管を洗うのが主な仕事だ。
「テルスの業火」のおかげさまで、猫の手も借りたいらしい。
そう、メールを送ったら、「くろねこよろしく。」と返ってきた。
昨日は4時間ぶっとうしで、書類にナンバリングをしていた。
カチャカチャとリズムよく押していたら、各所から苦情が出て、最終的には懐中電灯を持って研究所から離れたところでさせられた。
気候の良い時期でよかったと安堵した。
立地条件的に、冬はビル風の如く冷たい風が吹き抜け、夏は自然豊なため蚊などの虫の大群に襲われただろう。
とにもかくにも、扱いが酷いのだ。
しかし、仕事の後に入れてもらえる珈琲がおいしいので、文句も忘れてしまう。
試験管を洗うのも一苦労で、こびりついた何かを割らずに洗うのは至難の業だと感じた。
それ専用の洗い機なるものもあるらしいが、汚れが取れないと不評で、専ら乾燥・消毒の役割を担っていた。
毎日毎日、よくこれだけ試験管を使うものだと感心しながら、ゆうに200本は並べられるであろう洗い機に並べて乾燥ボタンを押す。
それが終われば、書類の整理。
確認済みの散らかった研究資料を項目ごとに纏めて、ひとつの論文になるようにするのだ。
骨の折れる作業だが、偏った英語の勉強になっている。
糞餓鬼の知っている偏った漢字を思うと、納得できた。
日常茶飯事、流暢に英語が飛び交っているこの研究所だが、この空間から出てしまうと、使い物にならないのだろう。
だいたい、もともと1つの論文としてファイリングされたものをバラバラにして研究所各所に撒き散らすという行為自体がよくわからない。
まぁ、各所部門というか、専門分野があって特定の部分しか必要ないのはわかるが。
そんなこんなで、日々十分すぎる糞餓鬼の残り香に浸りながら過ごしている。
1箇所、「エド専用」の部屋は近づくことさえ出来ないでいる。
遠くから、張り紙の右上が剥がれているのが見えた。
それでも、それを直すために近づこうとも思わなかった。
一番濃い残り香を残しているそこは、何かの聖域に思えた。


ライブにも何度か足を向けた。
他のバンドも何組か聞いたが、レベルが違うとすぐにわかった。
この手の音楽はあまり聴かないが、突き抜けてくる生の音というものに鳥肌を立てた。
後ろで聴くに止まってはいるが、前で首を振り全身で音楽を感じる彼らに共感できた。
彼らは音楽と一体となっているのだと、下手な自尊心を捨てたくもなった。
それでも、彼らの音楽は傍で聴くオレすらも音楽と一体にさせる何かを持っていた。
勿論、ブロッシュやトリンガムは、前で飛び跳ね首を振っていた。
トリンガムは相変わらず弟を引きずりまわし、その弟は見事アルフォンス君のファンになってしまったらしく、今では逆に連れまわされているらしい。
ヒューズはグレイシアを連れて何度か来たが、猛者の多さに危険を感じたか、あまり来ようとはしなかった。
その後は、恒例の打ち上げに興じ、音楽の話から学校の話、空気を共有した。
糞餓鬼の弟は、こちらを物言いたげに視線を送り、こちらが笑いかけると、返してはくれた。
特として嫌われているわけではないと、安堵をしたが、警戒されていることには変わりないようだ。


「来週から、自動車学校通うんでしょ?バイトどうするの?」
「自校は土日だけにするから、普段どおり。」
「わたしも通おうかしら。」
「何言ってんだよ。リザは他校に進学するんだろ?」
「そうだけど。」
「まだ迷ってるのか?」
「う〜ん、そういう訳じゃないんだけどね。」
久々に生徒が多く乗るバスに乗った気がする。
ここ最近は、最終バスに乗ることが多かった。
立ったまま揺られるのも久々だった。
リザを一人がけに座らせて、その横に立つ。
「偏差値そんなに高かったか?」
「一応A判定。余裕と言えば余裕なんだけどね。」
「じゃあ、なんだよ。」
「なんか、あんたたち見てると、遠距離に自信がなくなってきたのよ。」
リザは、なんとなく予想がついたというか、からかうこともせずに受け入れてくれていた。
いつ気が付いたかと問えば、はじめからと返ってきた。
夢の話もしたことがあるからか、割と想像の範囲内でことが進んだと笑っていた。
恋愛とか、そういう繋がりではなくもっと深いもので繋がっていられる関係が羨ましいと付け加えられた。
「別に、この3ヶ月近づかず離れずといった平衡状態だけどな。」
「それが問題なのよ。」
次の春には糞餓鬼の弟は高校生になる。
バンドの活動も今より活発になるだろうし、それを間近で見ることもできず、ただファンが増え続けることに不安を覚えているのだろう。
言葉の繋がりなんて、意外と薄っぺらいもので、信頼が無ければ成り立たない。
確かに、信頼していないわけではないのだろうが、それでも距離が不安にさせるのだろう。
触れることも、見つめあうことも、ないのだから。
電話越しの声も、動かない静止画も、ただ虚しいだけだと知った。
しかしながら、電話をしたことも無ければ、糞餓鬼の写真も持っていなかった。
代わりと呼べるものではないが、書きなぐられたメールアドレスを壁に張っている。
我ながら女々しいと自嘲した。


「で、今回のライブは何が特別なんだ?」
「ん?そうね。ん〜、行ってからのお楽しみ?」
「へぇ。」
1時間後にと、オレ達は別れた。
あれでも“女”なので、用意に時間が掛かるのだ。
いや、そこいらの“女”よりはかなり上ランクだ。
お互いに恋人同士みたいな時期もあったが、やはり幼馴染の壁は越えられなかった。
両母親は大いに落胆したが、オレ達にとっては異性の親友と呼べる存在のほうがたいへんうれしいものであった。


「遅刻するぞ。」
「仕方ないじゃない。髪がなかなか乾かなかったのよ。」
かすかに香る髪は、相変わらずときめくことのできる対象ではなかったが、落ち着く香りだ。


開演10分前。
滑り込みセーフ。
チケットと交換にドリンク券を受け取って会場内に入ると、熱気と煙に咽た。
やはり慣れることができない。
オレはいつもの定位置と、壁に背を預けた。
彼らのバンドは取りを飾る。
それまでは、前座と同じだ。
はじまるまでは、リザもオレの隣でチビチビとジュースを飲みながら観賞する。
ジャンの彼女というのは、誰もが知っていたので始まればすんなりと最前列に優先された。
特別な待遇と言ったところだが、リザが近くに居ればなぜか、ジャンの音は格段に良くなるともっぱらの噂なので仕方がない。
あながち眉唾物でもなく、実際表現はできないが、リザが居るのと居ないのとでは音の重厚感が違うように思う。
音が変るまでも愛されていることに、何の不安があるのだろうか。
落ち着く間もなく、トップバッターのバンドがステージに上がった。
盛り上がりには欠けるが、それなりに良いバンドだった。
それでも相変わらずの右から左状態で、しどろもどろのMCで周りが笑っても何がおかしいのかと呆けていた。


こういう何も考えていない瞬間、無性に会いたくなった。
何か考えなければならない時は、思い出さずに済んでいた。
ふとした瞬間、例えば授業中に開いた窓から強い風が吹いたときとか、終業のチャイムの音に気が抜けたとき、体育の順番待ちとか、そんな時。
居ないことがあまりにも不自然に思えた。
心にぽっかりと穴が空いているような、そんな虚しさ。


気が付いたら隣にリザがいなかったので、次は彼らの出番なのだろう。
強烈な叫びに鼓膜が震えた。
澄んだ声で叫ぶ彼はマイク無しでも、その声がオレの耳に届くような気さえする。
そして、音楽の波にライブハウスが溺れる。
カリスマ性だとか、そういうものを見ることができた。


「また、上手くなった。すごいなオレの弟は。」
ぼやくように囁かれた声にオレは耳を疑った。
声がするほうを見ると、焦がれた蜜色の頭がそこにあった。
「間に合ってよかった。」
少し息が切れているのか、肩を上下させている。
「ひさしぶり。」
胸が熱くなり、こみ上げてくるのは感情ばかりで何も言う事ができなかった。
オレはおもいきり、抱きしめてその体温を感じた。
「本物だ。」
「本物だよ。」
そして、キスをした。
貪るという言葉が相応しい。
互いに求めた。
互いが求めたものが、本当に手の届く距離にあったのだから。
芯まで響く興奮剤のような音楽にオレ達は依存し、ただ欲望の趣くままにお互いを感じた。
確かな体温。
確かな鼓動。
確かな感触。
確かな生命。
どうして、オレ達は一つになれないのだろうかと不思議に思った。
溶け合ってしまえば、離れ離れにならずにすむのだ。
溶け合ってしまえば、全てを共有できるのだ。
お互いを感じあえる体が疎ましいとさえ思ったほどだった。
ひとしきり堪能して離れた。
本当は、まだ足りなかった。
「なんでいるんだ?」
「一時帰国。ひと段落ついたんだ。色々と書類とかそういうのを処理したらまたすぐに向こうに行かなきゃならないし。」
「なんで…」
「驚かそうと、思ったんだけどさ。ごめんって。」
「夢じゃないよな。」
「夢の中の方が会えないような気がする。」
そう、あれから見る夢はなんというか、森の夢すら見れなくなっていた。
「望み薄なのは、どっちも同じだよ。」
オレ達は、笑った。
この空気。
オレはこの空気が1番好きだ。


「だから、ごめんって。」
「別に、いいけどさ。」
「こっちに着く最終の便に乗れなかったら、会えなかったんだし、明日の朝一の便だったら、とんぼ返りだったんだよ。夕方までには帰らなくちゃいけなかったし。」
「だから、別にいいって。」
「顔が怒ってる。」
少しだけ身長が伸びたように思う。
顔つきが少しだけ大人になった。
首元が細くなって、いやにやらしく見えた。


オレ達は、いつもの打ち上げには参加しなかった。
アルフォンス君は、とても綺麗な顔をして笑っていた。


「くそう、この時差が疎ましい。」
現在、9時をまわったところ。
向こうは昼の12時なのだ。
時差ぼけにフラフラしてると思いきや、案外平気のようだった。
「任せろ。普段からまともな生活はしてないからな!」
だろうなと思った。
メールの受信時刻は見事にバラバラだったのだ。
「身長伸びねぇぞ。」
「うるせぇ。これでも伸びたんだ。」
と言って、爪先立ちになって、大きく胸を張る。
バランスが悪いのかふらついてたので、指で軽く突くと体勢を崩した。
「何する!」
「いや、ムカついた。」
小さい方が可愛いのにと思った。
只今の身長差(概算)20cm弱。
オレの身長が175ぐらいなので、そんなものだと思う。
リザの身長が160ちょいだとおもうので、許容範囲はそれまでだ。
「オレは、ジャンを抜かすのだ!」
夢のまた夢を大声で叫んでいる。


特にどこに行くわけでもなく、オレ達はいつもの道を歩いた。
時折吹く冷たい風に、冬がもうすぐ訪れるのだと囁かれ、通り過ぎてしまった夏を悔やんだ。
何がしたかったかと思ったが、これといって特に思い浮かばなかった自分に落胆した。
「オレさ、春に大学院出て、本格的に研究所に入ることになったんだ。」
そうなんだと、特に興味なさげに返すと、腹に衝撃が走る。
「いって、何するんだよ。」
「これって、すごいことなんだけど。つか、喜べよ。」
距離感にオレはたじろいでいた。
離れることしか知らないようだ。
走っても、走ってもオレの足じゃ追いつかない。
なんせ、糞餓鬼はバイクにまたがっているのだから。
「おう、良かったな。」
「投げやり。」
「うるせぇ。」
言いたいこと、聴きたいこと山ほどあったはずなのに、どこか空虚感が漂っていた。
あまりの距離感に、口を開けば泣いてしまいそうだった。
虚栄心で固められた投げやりな言葉が、いつまでも頭の中で響いた。
「表立った研究所じゃないんだけど、グリードさんの研究を膨大な資金を積んで支援してくれるところが出てきたんだ。」
「へぇ。」
「本格的な研究に入るんだ。」
「うん。」
なんとなく、予想は付いた。
この後の言葉は…
「連絡とか、取れなくなる。」
ほれみろ。
「そう…か。」
「外部に一切の情報が漏洩しないようにって。完全にその研究を買ったんだ。関わった研究員は全員そっちに行く。」
「そうなのか。」
ぽっかりと空いたなんともいえない感情が、ただただ虚無を呼んだ。
足元もしっかり2本の足で地面に立っているし、目だってよく見えるし、耳も聞こえる。
でも、心をどこかに落としてしまったようで、なんの感慨も浮かばなかった。
「最後なんだな。」
「違うよ。最後じゃない。研究が終われば、帰ってくる。10年先か20年先か。」
「そんなに待てない。」
「そう…だよな。」
「研究、やめちまえよ。」
「やめようかと思ったよ。でも、オレが居なくちゃもう、研究は進まないんだ。」
「やめちまえよ。」
「やめたかったよ。でも、グリードさんの研究を完成させたいんだ。」
「オレは…」
開きかけた口を塞がれる。
「決心が鈍るから。」
消えそうな、震えて、それでも芯のある声。
口を塞いでいた手を掴んで、腕のなかにすっぽり納まる糞餓鬼を抱きしめた。
あまりにも細くて、折ってしまいそうだと思いながらも、力を緩めることが出来なかった。
必死に堪えた何かが、ゆっくりと、ゆっくりと沈んでいった。
運命?
負けた。
世界の波に勝てなかった。
「お別れ、しに来たんだよな。」
「うん。」
「最後にさ、最後だからさ…」
背中にしっかりと手を回されたことに大いに安堵した。
「うん。いいよ。」


無言で、ただしっかりと手をつないで、森を歩くようにオレ達は学校への道のりを歩いた。
用務員室に明かりが灯っている以外は暗く、静まり返っていた。
「研究所のオレの部屋、まだそのままらしんだ。」
「そのままだよ。」
驚いた顔を見せた。
「そっか。バイトしてるんだっけ。」
「ああ。」
「みんな元気か?」
「元気だよ。一昨日、ピーターさんが彼女に振られて元気が無いくらいだ。」
「あはは。あそこはひっついたり、離れたりだからな。」
「らしいな。」
くだらない会話。
なんとも愛おしい。
この時間がとまらないものか。
この時間を止めてしまいたい。


研究所も見事に明かりが消えていた。
珍しいこともあるものだと思ったら、今日は何やらメンテナンスで夜中機械類が使えないらしい。
だからオレもバイトが休みだったというわけだ。
「バイトの特権。」
「俺も持ってるよ。」
裏口に回って、二人して鍵を取り出した。
糞餓鬼はジャラジャラと、色々な鍵を持っていた。
その中から、瞬時にココの鍵を探し当てたこいつがすごいと思った。
「慣れ親しんだ鍵だからね。」
そう言って、どっちが鍵を開けるか喧嘩した。
ささやかな瞬間。


最終的にじゃんけんで俺が負けた。
誇らしげにキーチェーンを回しながら、人気のない暗い廊下を歩いた。
白い壁や床は見事なぐらいにくっきりと影を作っていた。
光と闇を交互に通過しながら、前を歩く糞餓鬼を眺めた。
闇の中でも光を放っている気がした。
薬品の匂いが自然と感じられるのは、オレがこの空間に慣れてしまっているからなんだろう。
「ここは、薬品くっさいよな。ジェニーはまだ続きやってるのか。」
薬品ゾーンを抜けて、階段を上がる。
2階の一番端の部屋。
最早開かずの間のようになっている。
マスターキーはあるが、誰もこの部屋を整理して別の部屋にしようとはしなかった。
みんな、こいつが好きだった。
だから、オレがバイトしてるんだろうと思った。
少しでも、こいつの香りを近くに感じたいのだろう。
右側だけ剥がれてだらしなくなった「エド専用」という張り紙。
ぱっと見、ユド専用に見えないこともない。
誰だよと心の中で突っ込むに終わった。
この部屋の鍵は、もちろんこいつしか持っていない。
「この部屋も、整理しなくちゃな。」
「特に何も置いてないだろ?」
「そうなんだけどな。」
そう言って鍵を開けると、以前見た景色と寸分違わなかった。
誰かが一度入り綺麗に掃除したように見えたけれど、それでもこいつの部屋だった。


資料が大量に置かれたデスクの上に、メモが貼ってあるのを見つけると、糞餓鬼は駆け寄った。
そのメモを大切に撫でて、それを抱きしめる。
「お帰り…、だって。」
こいつは、もう2度とここへは戻ってこない。
戻って来れないのだ。
下の資料はエドの研究した研究資料と作りかけの論文。
帰って来いよと、戻って来いよと、そんな言葉ばかりが頭を巡った。
オレもエドも言葉を発することすらできなかった。
時間だけが過ぎていき、共有した空間と時間が胸を締め付けた。
「ただいまって、言いたかった。」
オレは無言で頷いた。
最後だという言葉が頭の中で大きく響いていた。
このまま、何も知らないまま時の流れと共に音信不通になった方がどれだけ幸せなのだろうか。
さよならとか、最後だとか、ここまで辛いとは思わなかった。
ぐちゃぐちゃになった感情がぐるぐるとしている。


「オレ、頑張るから。」
「ああ。」
「お前も…頑張れ。」
あのホットラインのメールアドレスも無用の長物になるのだろう。
部屋に貼ったメモがただ、虚しく思えた。
「ああ。」
ソファーベッドに座るオレに倒れこんだ糞餓鬼は、確かな質量を持っていると感じるのに、とても軽かった。
「お前、食ってるか?」
押し倒されたカタチというか、どこかデジャブを感じさせる体勢。
「食べてるよ。」
「軽すぎやしないか?」
「気のせいだよ。」
骨ばった背中を撫でる。
この年頃特有の少女とも少年ともつかない体つき。
柔らかい皮膚を布越しにかんじた。
月明かりに青白く光る頬をゆっくりと撫でた。
そして、キスをした。
はじめは軽く。
付かず離れず。
軽く口をあけて、お互いの唇を軽く絡めた。
それから、舌を絡める。
ゆっくりと、ゆっくりと。
胸が締め付けられる。
痛かった。


「ロイ?」
「なんでもない。」
耳元に伝わる液体が気持ち悪かった。
エドはそれに口付け、オレの腕の中でまるくなった。
「オレ、ロイに言おうと思ってたことがあったんだ。」
静かに、とめどなくながれるそれは、口を開けば嗚咽に変わりそうだった。
「ありがとう。」
くぐもった小さな声。
堪えきれなかったオレは、大きな声で泣いた。
ただ、泣いた。
年下の糞餓鬼の、それも男の胸で泣いた。
悲しかった。
苦しかった。
痛かった。
これほど近くに居るのに、近くに居ない。
肌のぬくもりも、なにもかも…もう、交わることがない。
10年?20年?オレは孤独に耐えられない。
そこまで、オレは強くない。
好きだから、離れなければならない。
そういう想いもある。
エゴの塊がとめどなく流れた。


気が付いたら朝で、エドも目元を赤く腫らし、お互いの顔に笑った。
6時の時計を確認して、だんだんあかるくなる空をオレ達はお互いの手を握ってその様子を見た。
エドの腹の音に我に返り、顔を洗って部屋を片付けた。
ダンボール一つにも満たなかった私物。
そして、部屋を出る時に、「エド専用」の張り紙をはがした。
それをオレに貼ると、いつもの糞餓鬼の子憎たらしい笑顔。
「剥ぎたかったら、自分で剥げばいい。待ってろなんて言わない。」
「勝手にするよ。」
胸元に張られた「エド専用」は会話のうちに「ユド専用」になってしまっていた。
「それと、これ。」
大量の鍵の中から、また見事に2つだけ鍵を外してよこした。
「返しておけばいいんだな。」
「うん。任せた。」


1度家に戻るというエドとバス停まで行き、お互いの乗るバスに乗った。
エドの乗るバスの方が早く着き、オレ達は淡白に別れた。
また明日も会うように。
今生の別れではないのだろうが、それでももっと他に言うべき事があったのだろうか。
「エド、ありがとう。」
発車するバスに向かって慌ててオレは叫んだ。
向こうには聞こえていないと思う。
笑いながら、こちらに手を振っていた。
暫くすると、オレの乗るバスも着いた。


最後の最後に醜態をさらしてしまったことを後悔した。
泣きすぎで頭が痛い。
キスして、抱き合っただけで、相変わらず何の進展もなかったことを笑った。
オレ達らしい。
卒業式前に向こうに行くのもいい。
驚かせればいい。
今度こそキチンとお別れなるものをしなければなるまい。
次の計画を立てることができた自分に驚いた。
まだ、諦めはついていないらしい。
締め付けられる想いは消えてはいないが、それでもこんな中途半端な別れは納得できない。
目を刺激する朝日が心地よいと思いながら、バスに揺られた。




ねくすと>>
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2007/11/23up

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