寝起きは最悪。
泥の感触がまだ足に残っている気がした。
心配になり、右足を動かす。
問題なく動いたのを確認すると、安心した。
それでも腹は減るもので、空腹感を感じている。
もしかしたら朝食の時に会えるかもと、着替えた。
その時に謝ろう。
部屋を出ようとした時、何かが邪魔をした。
オレの枕が、かごに入れられて置いてあった。
取りに行く口実もなくなったと、窓の外に臨む晴れ渡った空を鬱陶しげに仰いだ。
朝食には、見事に顔をださなかったアイツは夜まで姿を現さず仕舞いだった。
オレは釈明する機会をことごとく奪われ焦燥に駆られていた。
気が付くと、12時を待たずにアイツの部屋を訪れていた。
ノックをしようとした手が動かず、そのまま86秒ほど立ち尽くした。
ため息をひとつ漏らして踵を返す。
部屋に戻って、その場にしゃがみこむと涙が出そうになった。
胸が苦しくて、苦しくて、夕食が逆流しそうだった。
壁1枚分の距離しかないはずなのに、なぜか遠くにいるようだった。
12時67秒前。
もうすぐ1分を切ろうとしている。
枕を抱えて、部屋をうろうろし始めて598秒。
うんざりしている。
ここに着た初日に、時計の電池を全て抜いてしまったので、この部屋には時計もない同然だ。
秒針が刻む音も無いこの部屋は、シンと静まり返っていて、ただオレが歩く度に擦れるスリッパの音と、オレの心音だけが響いている。
(実際には心音はオレにしか聞こえていないが)
そんなことを考えているうちに、1分を切ってしまった。
ブランデーも、チョコレートも貰いに行っていないことに気が付いて、慌てて取りに行った。
12時を132秒過ぎた時、オレはまた部屋の前で悪戦苦闘していた。
ノックする手が重い。
思い切ってノックをすると、返事がない。
再度ノックをする。
それでも返事がなかったので、恐る恐る開けると、あいつはまだ仕事をしていた。
それで気が付かなかったのかと、少し安堵したが、いつもと空気が違うような気がした。
少しがけ開いた扉がそれ以上開くのを拒んでいるように重かったし、何よりも本当に気づいていないのか、こちらを向かない。
集中しているのかと、静に入り、戸を閉める。
ドアの前の前で立ったまま、重い空気に息を呑むことすら出来なかった。
そのまま154秒が過ぎようとしている。
オレが口を開こうとした瞬間、あいつが開く。
「職務怠慢のペナルティーは何にしようか。」
あいつは、こちらを見ずに言う。
静かに低い声が響く。
いつもと違う声のトーンに鳥肌が立った。
普段、どんな屈強な大男と仕事をしてもたじろぐ事を知らなかったオレは、不慣れな状況に気圧されていた。
「昨日、君は寝所での警護を怠り、また本日は時間を守らなかった。」
そう言うと静かに立ち上がる。
そして、こちらに向かってゆっくりと歩いてくる。
その目はオレをじっと捉えている。
オレはその目から視線を外せない。
初めて感じる恐怖に足がすくんでいた。
しかし、ドアに背中をつけていたオレは、それ以上下がりようがない。
一歩一歩と近づいてくる恐怖に、オレはお盆を落とし、かかるチョコレートの熱さも省みずに、その場に頭を抱えてうずくまった。
チョコレートの掛かった腕が痛んだし、多分、マグカップも、ブランデーのボトルも、グラスも割れた。
足元に濡れた感触と、チョコレートボンボンの匂いと、それでもアイツが近づいてくる擦れた音がオレを追い詰めた。
硬く頭を抱えてうずくまっていたはずなのに、易々と腕を掴まれて立たされた。
驚いて顔を上げると、見慣れたはずの顔が別人のように見えた。
腕に食い込む手が痛くて、顔をしかめてもその手は緩まることはなかった。
「私は絶対に君を手放すつもりはない。」
声を荒げる目の前の男は見たことがない。
抵抗しようと思えばできたのだろうか。
「私を拒むことなど許さない。」
地の底から這い上がるような声に耳が痛む。
いっそう強く握られる腕がひどく痛む。
こいつのどこにそんな力があるのだろうか…
いつも見る手ではない。
血管は浮き上がり、オレの腕と同じくらい赤くなっている。
火傷と相まって、ひどく痛む腕は、感覚を失いつつある。
オレは目をそらすことが出来ずに、こいつの目をただ見ていることしかできなかった。
誰だ?コレは。
そのままキスをされる。
顔を背けて抵抗しようとしても、壁に押し付けられていてそれも叶わない。
口を閉じようとすると、思い切り唇を噛まれて、口の中が鉄の味でいっぱいになる。
涙が出た。
誰だ?コレは。
今目の前にいるのはオレの知っているあんたじゃない。
膝まで埋まった泥の中でオレはまだ足掻いていた。
もう、足だけでは前へ進めなくなっているので、身体全身で泳ぐようにして進んでいる。
顔も泥だらけだ。
でも、早く行かないと、早く足りないものを見つけなければいけなかった。
それでも岸にはたどり着けない。
ここには水密灯も無ければ妖精も飛んでいないし、月も見えない。
泣きそうだった。
苦しかった。
いつの間にか腰まで浸かっていて、恐くなった。
このまま、足りないものを見つけられずに沈んでいくのが恐かった。
オレは誰かの名前を叫んだ。
誰の名前を叫んでいるのかはオレ自身にもわからなかった。
そのまま、オレはアイツに犯されたんだと思う。
今まで、そういう認識ではなく、二人でそういう行為をしているとオレは不本意ながら感じていた。
でも、今回は違う。
オレはアイツに犯されたんだ。
慣らすこともせずに一気に突き上げられたオレは、声を出すことすら叶わず、気を失った。
気が付くとオレは破片だらけの床の上で、ドアに背を持たれて座っていた。
放置よろしくだ。
ノドが酷く乾いていて、唇が痛い。ちなみに腰も足も、腕も痛い。
幸い、破片で切っている様子はなかったけれど、ブランデーの水溜りと、チョコレートの水溜り、足に垂れている精液と血の跡が無性に悲しかった。
きついチョコレートボンボンの匂いが鼻腔を刺激する。
立ち上がろうとしてもうまく立ち上がれず、途方にくれた。
それでも、立ち上がったのは机の裏でうずくまっているアイツを見つけたからだ。
近づくと、消え入りそうな声ですまないと繰り返している。
オレはあいつの前に跪き、抱きしめた。
恐くはなかった。ただただ悲しくて涙を流した。
身体が痛かったけれど、それより心が痛かった。
痛くて痛くて、涙が流れた。
ためらいがちに回された腕を感じて、より一層強く抱きしめると、しっかりと抱きしめられた。
「すまない」
繰り返す言葉に返事が出来なかった。
その代わり、オレはずっと抱きしめていた。
安心した子供のようにオレの腕の中でいつしか寝息を立てたこいつを、いやに愛しく感じた。
ずっとこのままというわけには行かず、静に離れると寝室から毛布を引っ張ってきてくるんでやった。
おでこに軽くキスをしてオレはシャワーを浴びるために自室に戻った。
幸い火傷も大したことがないようで、赤く腫れているだけだった。
その上に重なるようにしてできた指の痕のほうが酷いようだった。
爪の痕は微妙に肉がえぐれ、血がこびりついている。
見事なぐらいの掴んだ痕。
うっ血した所は気持ちの悪い色になっている。
水をかけると気持ちが良かった。
鏡を見ると口元から顔がが腫れていて、ひどい顔になっていた。
中から精液を出そうとしたら、切れていたらしく激痛が走ったが、それでも出した。
この行為に慣れつつあるオレは、少し惨めに思った。
そして、少しだけ泣いた。
声を立てずに泣いた。
あいつを傷つけたオレが憎かった。
でも、あいつを救えるのもオレだ。
まだ夜は明けていなかったけれど、制服に着替えてアイツの部屋に片付けに行った。
鼻を突くチョコレートボンボンの匂いに吐き気がしたが、それでもオレは破片を広い、床を拭いた。
きれいに片付けると、オレはアイツの隣に座って目を閉じた。
座るとお尻が痛くて声を上げそうになったけれど、目をつむってもたれかかった。
人工的に明るくなるこの部屋はいつも物悲しいと感じる。
明るくなるのを感じたのか、隣でゆっくりと目を覚ました。
オレはオレの持っている最高の笑顔で、挨拶をした。
返事はもちろん返ってこない。
けれど、きつく、強く抱きしめられた。
黒い髪が耳元に当たり、くすぐったい。
毛布の中で暖められた体温が気持ちがいい。
オレもゆっくりと腕を回した。
心臓が大きくでも、ゆっくりと音を立てる。
ああ、オレ、こいつが好きだ。
「オレさ、あんたのことが好きだよ。」
すんなり出た言葉に、言ったオレが驚いた。
「オレ、あんたが好きだよ。」
大の大人が大声を上げて泣く姿に胸が苦しくなったけれど、昨日までのそれとは違った。
オレ達は晴れて、相思相愛?になったのだ。
身体は痛くて、重くて、最低だったけれど、心は軽かった。
ぐしゃぐしゃになったきれいな顔に、オレは何度も何度も痛む唇でキスをした。
こいつが好きだ。
深く深くしたキスはもう、不本意ではなかった。
ちいさく愛してるといったこいつは、いつものこいつに戻っていた。
本当のあんたは、きっと昨日のあんただ。
ぎゅっと抑えている。
本当の意味で、幸せにしてやりたいと思った。
こいつがオレを見つけた本当の意味。
オレがこいつとであった本当の意味。
オレじゃないと駄目なんだ。
こいつを救うのも、こいつを幸せにするのも。
オレはもしかしたら、こいつに出会うのを待っていたのかもしれない。
オレは、こいつを守るために、幸せにするために生まれてきたのかもしれない。
だから、親父が爆破されて重傷を負っても、こうして生きながらえている。
言い訳はこんなもんだ。
牛乳が飲めないから小さいんだと無駄に喧嘩した。
そして、殴り合いになって、油断していたオレにアイツのこぶしがめり込んだと。
長袖だから、腕はしっかり隠れてる。
こってり叱られたオレ達は、二人で笑った。
こんな幸せがずっといつまでも続けばいい。
そう、強く、願った。
第6話
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